2018年4月23日月曜日

新ブログ

 新ブログを立ち上げました。当ブログの過去ログは先日まとめて非公開にしてしまいましたが、気が向いたもののみ公開に切り替える場合があります。

2011年12月19日月曜日

深呼吸する惑星

 生まれてはじめて観た小劇場演劇は早稲田銅鑼魔館で上演されたザズウシアターの『欲望という名の電車』だが、これはテネシー・ウィリアムズの有名戯曲。オリジナル演目の小劇場演劇としては、『欲望という名の電車』の少し後に観た第三舞台『モダンホラー特別編』がはじめて。劇場は下北沢本多劇場。1987年の暮れ、手持ち資料に間違いがなければ12月29日の千秋楽である。 
 当時の私は高校一年生であり、一応は映画鑑賞を趣味と公言しながらもようやく特撮映画以外にも目を向けはじめた程度、作品内で描かれている物語もさほど複雑でなければどうにか追えるようになってきたレベルの、要はあからさまに子どもだったのである。そんな人間が重層的な物語構造の多い第三舞台の作品を観たんだから(といってもこの時代の小劇場系演劇は第三舞台に限らず重層的な物語構造がブームだったようにも思うが)、そりゃあ内容なんてわかるわけがない。ないのだが、しかしえらくスピーディでショーアップされた演出やセリフや役者と、それに瞬時に熱狂的に反応する観客の空気に呑まれ、とにかく理解できないにもかかわらずえらく衝撃を受けた。 
 以後、88年『天使は瞳を閉じて』、89年『宇宙で眠るための方法について 序章』『ピルグリム』、90年『ビー・ヒア・ナウ』、91年『朝日のような夕日をつれて'91』『ハッシャ・バイ』と欠かさず観劇。『ピルグリム』にちょっとした物足りなさを感じたり『ビー・ヒア・ナウ』にいまひとつ薄い印象を抱いたりはしたものの、しかし前のめりになるほど積極的に楽しんで観ていたのは間違いない。それでいながら一本の物語が進行する『天使は瞳を閉じて』以外の作品は、結局大筋すらろくに理解できていなかったのも事実だが。
モダン・ホラー 天使は瞳を閉じて クラシック版 ピルグリム クラシック版 ビー・ヒア・ナウ ハッシャ・バイ
 だが92年、唯一ストーリーを理解できていたつもりの『天使は瞳を閉じて International version』を観なかった。チケットをとり損ねたんだか再演だからいいやと意識して観なかったのかは覚えていないが、とにかく足を運ばず連続観劇が途絶えた。90年に下北沢駅前劇場で観た大人計画の『絶妙な関係 Live at 秘宝館』で「かっこつけた演劇ってかっこわるい」みたいなニュアンスで第三舞台のパロディとおぼしきやりとりがあり、それを観て同感して爆笑してしまったことも、『天使は瞳を閉じて』再演に足を運ばなかった要因のひとつかもしれない。大人計画を観た翌年の91年には、前述のとおり『朝日のような夕日をつれて'91』と『ハッシャ・バイ』の2本を観てるけど。 
 93年は第三舞台の公演は行われなかった。94年、岸田戯曲賞受賞作『スナフキンの手紙』観劇。アジアを旅するバックパッカーの間を流通するノート、通称「スナフキンの手紙」、そこには普段から心に抱きながらも母国で日常を送る中では発せられることのない、旅人たちの真実の言葉が記されている、というような物語。この芝居を観ながら私は「このパターンは以前にも第三舞台で観たな」と、ようやくうすぼんやりと気づいた。気づいたのだが、それがなんなのか突き詰めることなく、『スナフキンの手紙』の題材に影響を受けたわけでもないのに観劇直後に生まれてはじめての海外旅行にバックパッカーとして出かけ、日本人が多く泊まる安宿の壁の落書きをみつけていわばこれがスナフキンの手紙のようなものかと読んだら宿で働く女の子をどうやったら口説けたかの体験談ばっかり書かれていて猛烈に嫌な気分になり、以後芝居のことを忘れた。 
 95年には『パレード旅団』が上演されたが、タイトルもポスターデザインも覚えているにもかかわらず、観たかどうかすら記憶が曖昧。おそらく観ていないけど絶対観ていないといいきる自信もない。 
 96年『リレイヤーIII』観劇。これは観た。サンシャイン劇場入口で開場を待っていたことを覚えているので確実だ。それでいて内容はまるっきり覚えていないのだが、この作品を観ているときに自分でもびっくりするぐらいはっきりと「第三舞台がわかった!」という感触があった。ほとんど天啓といっていいぐらいだった、ような気がする。 
 で、わかった結果、飽きた。芝居自体をあまり観なくなったのもあるが、第三舞台はもういいかな、と思ってしまったのだ。観客は身勝手なものである。そのため97年の『朝日のような夕日をつれて'97』は見送り。その後98、99、2000年と公演自体が行われなかったことも知らなかった。
  スナフキンの手紙 パレード旅団 リレイヤー3 
 2001年、第三舞台劇団結成20周年記念&10年間封印公演なる情報が入ってびっくり。しかも演目タイトルが『ファントム・ペイン』。主催者鴻上尚史がことあるごとにエッセイやら「ごあいさつ」やらでいつかやりたいと考えている作品のタイトルとして書いてきたのが『ファントム・ペイン』である。『リレイヤーIII』から5年間観ずにきたが、かつて第三舞台に熱狂した身としては絶対に観なくてはならない。 
 そのつもりだったのだが、前売券発売日に寝坊した。午後三時頃、聞くだけ聞いてみようと近所のチケットぴあに出向くと当然のことながら売り切れ。が、念のためとさらなる確認をすると、売り切れなのは東京公演であり、福岡公演はまだ残っているとのこと。その場で一枚購入、それなりにいくつかあった仕事をどうにか調整、2001年10月14日、単身福岡へ飛び、翌日昼間、メルパルクホール福岡にて『ファントム・ペイン』観劇。良かった。良かったと同時に『リレイヤーIII』で得た「わかった」ことに、自分ひとりで勝手に確信を得た。
 鴻上尚史による第三舞台作品は、繰り返し繰り返し、ここではないどこか、こうじゃなかった可能性、といったものについて言及していた、というのが『リレイヤーIII』を観た際に得た「わかった」ことである。あくまで私見ではあるが、『ピルグリム』における「オアシス」しかり、『ビー・ヒア・ナウ』における語られざる元号「弥勒」しかり、『スナフキンの手紙』における「スナフキンの手紙」しかり。 
 『ファントム・ペイン』は、その時々で選択しなかった可能性をパラレルワールドという設定で描くのである。記憶が正しければたしかそういう話だった。『リレイヤーIII』を観た時点でこうした「捨ててしまった可能性に思いを馳せる」のが鴻上尚史の第三舞台でのテーマの核であろう、とは思っていたんだけど、『ファントム・ペイン』を観ながらこれまた遅まきながら気づいたのは、これって結局、岩谷真哉のことなんじゃないか、ということであった。 
 岩谷真哉というのは第三舞台旗揚げメンバーの一人であり、いくつかの証言を読むと非常に才能に溢れた初期第三舞台を代表する看板俳優だったとのことだが、1984年に交通事故で他界。私が第三舞台を観るようになったのは87年のことなので、当然ながら彼の姿は一度も観ることがかなわないままである。 
 とはいっても、私も一応は第三舞台のファンだったので、鴻上尚史のエッセイを中心にあれこれ読んだり、もっと以前から第三舞台を観ている人の話を聞くことで、第三舞台における岩谷真哉の存在の大きさは聞き及んでいて、そこへきて舞台では別の可能性の世界の物語が繰り返し演じられるんだから、そりゃあ観る側も気づくってものである。何度も何度も何度も何度も、第三舞台は岩谷真哉に「君が生きていたら一緒にどんな芝居をやっていたんだろうか、でも君がいなくても俺たちは芝居をやってるよ」と語り続けているのである。というのが、私が「わかった」と思っている第三舞台である。
  ファントム・ペイン 
 その後10年が過ぎて第三舞台の封印が解ける2011年となった。そういや今年か、と時々思い出しながらようやく情報が入ってきたら、なんと封印解除でありながら解散公演であるという。あらまびっくり。『ファントム・ペイン』以上に観に行かなくっちゃ! 
 だがその前に、第三舞台封印中に若手の役者を集めて鴻上尚史が作った「虚構の劇団」による『天使は瞳を閉じて』の再演があったので、こちらを観に行ったら、あー、ぼんやりした記憶では台本も演出も当時とあんまり変わらないはずなのに、なんだろう、いいたかないけど、その、ダサい、のである。役者の力量もあるのかもしれないが、かつて松尾スズキが大人計画でパロディの題材にしていたように、かっこつけててかっこわるいというか。今現在にそぐわないというか。 
 物語自体は原発事故で人々が死に絶える中、ドーム内に生き残った人々の人間模様を描くという、再演でありながらも今を予見したような内容なのだが、細かい部分が、なんだろう、いいたかないけど、その、繰り返すけど、ダサい、のである。かつて時代を先取りすると評された劇団の代表作が、同じ演出家でありながら時代遅れに感じてしまう。同じ演出手法だからこそ、かもしれないが。 
 ということで解散公演は観たい、けど期待できない、さてどうしよう、という状態になってしまった。ついでに書くと、チケット代は高いし、現在私はいろいろあって収入が激減していて苦しいし。こうしたことが理由なわけではなく、気がつくとすでに前売券発売日が過ぎていた。さらに気がつくと、すでに公演がスタートしていた。 
 そんなわけで半ば諦めるどころか忘れてすらいたのだが、ツイッターを眺めていたら、今回の公演は千秋楽でライブビューイングが行われるという。これか、これに行ければいいか、とチケット購入方法を知るために第三舞台サイトを覗くと、なんと各日各回の当日券も、わずかながら毎日ある様子。そこで当日券取得を試したところ、幸運にもチケットがとれ、去る12月15日、新宿紀伊國屋ホールにて急遽、生で第三舞台封印解除&解散公演『深呼吸する惑星』を観劇できることとなったのである。 
  観た。しかも前から三列目。役者の顔もばっちり。結果、観られて良かったし観て良かった。虚構の劇団版『天使は瞳を閉じて』の際に感じた危惧はあくまで危惧で終わり、ちゃんと私がかつて大好きだった第三舞台の作品だった。最後の第三舞台というよりいつもの第三舞台だったのも、良かったと思える要因かもしれない。 
 とはいえあの頃の熱狂的なファンのおかげで巻き起こっていた熱狂的な盛り上がりがあるわけではなく、しかしそこらへんを考慮しているのか、演出的にもかつてのようなごり押しなパワーは控えられていて、そのあたりは10年経過したことによる変化かな、と思う。虚構の劇団版『天使は瞳を閉じて』は、第三舞台が熱狂的なファンに支えられていた時代だからこそ成り立っていたであろう演出がかえって足を引っ張っていたが、『深呼吸する惑星』はそこをうまくかわしてくれていたのである。 
 このタイミングで解散するのもおそらくちょうどいい。やめないでほしいというファンもいるだろうけど、最初に観てから24年、前回観てから10年経って、いつもの第三舞台が観られたんだから、私は充分満足だ。最後のというよりいつものと書いたけど、最後だからこそのちょっとしたファンサービスもあり、でもファンサービスの仕方はやっぱりいつもの第三舞台だし。 
 そしてまた、新作でありながらもやっぱり今回も、私見では岩谷真哉へのメッセージだよなあ、という感想を抱いたのだが、それでいい。私の好きな第三舞台はそれが軸なんだからそれでいい。もしも岩谷真哉が亡くならなかったら第三舞台の芝居は違うものになっていただろうし、そしたら私は第三舞台を観て違うことを思っただろうけど、でも私はこれまでの第三舞台を好きで観てきたんだから、これでいいのです。
  私家版 第三舞台 鴻上尚史のごあいさつ―1981‐2004

2002年5月23日木曜日

帰国

gen1971gen2002-05-22    
 機内でなんとか少し眠ったのだが、飛行機というものはどういう時間帯のフライトであろうと必ず何かしら食事を出すのは義務づけられているものなのか、この飛行機は朝8時頃成田到着だったためか6時頃、まだあんまり眠ってない時間に叩き起こされて食事。しかし朝っぱからなんだか油っぽいオムレツなんかは食えるはずもなく、フルーツだけ食べる。本当はヨーグルトも食べようとしたのだが、これが甘みの全くないほんとのプレーンヨーグルトで、しかもなんだか濃くてまるでおいしくないチーズのような味であった。結局ろくに食えないもののために睡眠時間1?2時間程度で起きることとなってしまったのであった。そして飛行機はその後すぐに成田着。検疫で狂犬病の注射できる病院情報を得て空港を出る。
   
 京成線の駅で『週刊文春』5/23号購入、帰りの電車で読みながら帰る。ここでアジアから帰って来ると東京はなんてどうたらこうたらと書くといかにもアジア帰りの旅人のようであるかもしれないが、そういうことを書くような人間だったら成田出てすぐに『週刊文春』なんて買って最近の情勢を見ようなどと思わないはずなのでそういうことはここでは期待しないでくださいね。
 
 最寄り駅へ着き、腹が減ったので松屋で牛飯。

 帰宅後荷物整理したり、旅行中に来ていた郵便物整理したり。『旅行人』5月号が到着。外へ出て駅前書店と駅書店で『TV Bros.』5/25→6/7号(東京ニュース通信社)、『SFマガジン』『ミステリマガジン』ともに6月号(ともに早川書房)、『ユリイカ』5月号(青土社)、文藝別冊『ゴダール』『澁澤龍彦』(ともに河出書房新社)、『COMIC BOX』6月号(ふゅーじょんぷろだくと)、『映画秘宝』vol.31(洋泉社)、『Cut』6月号(ロッキング・オン)購入。買いすぎ。そうこうするうちに夜が更ける。

2002年5月22日水曜日

デジタルコピー品

 旅行最終日。正午がチェックアウトだったので、その後荷物を置かせてもらってサパーレックへ再び出向く。行く途中カオサンの端っこでNMさんとばったり。挨拶してまた歩く。が、ようやくサパーレックへたどり着くと、なんとこの前カトマンズへ向かう前に確認のために寄ったときとは大きく異なり、まるで昨日の夕方というほどではないにしろかなりの店がシャッターを下ろし、開けてる店もプレステ本体を置き、また改造してる店も堂々とありながらもなぜかソフトはゲームボーイのものばかり。なので目に付いた店に順々にプレステソフトはないのかと問うとただただ皆ないというばかり。ない理由はみんなアイドントノウとのこと。単に英語が駄目なのかもしれないけど。俺も含めて。しかし根気よく聞いてまわった結果、どうやら現在警察によるここサパーレックの取り締まりが強化されているということが判明。なぜならここはブラックマーケットでプレステソフトも著作権侵害にあたるコピー品だから。といってもこの警察の取り締まり強化は永続的なものではなく、ここ数週間だけだろうとおっさんは言う。てことはつまり俺のタイミングが滅茶苦茶悪かったってことなのね。警察も気まぐれでこんなタイミングでやらないで欲しいわ。

 ケンタッキーで一休みしてパンティーププラザへ。でもってしかしパソコン用ソフトはほとんどウインドウズ用でしかも英語版だったりしていらないし、映画のDVDも結構あるけどどうせ画質悪いだろうし第一DVDといいながら実体はVCDだったりしそうなので単にひやかして外へ。カオサンにそろそろ戻ろうかなあと思ってたら土砂降り。仕方なくシャッター降りてる店の軒下で雨宿り。ある程度小降りになってきたところでトゥクトゥクでカオサンへ。ちょっと小腹が空いたので路上イサーン屋台で食ってネットやったりして時間つぶし、7時頃に宿へ。9時に空港へのバス(実際にはバン)がピックアップしにくるのでそれまでジュース飲みながら時間をつぶさせてもらう。途中この宿に数日滞在してるという日本人が話しかけてくるが、自分から話しかけてきたわりにはだるいだるいとばかり言っていてあまり会話にならず、結局彼はいたたまれなくなって自分の部屋に帰っていくのであった。

 ようやく9時を少しすぎてからバスが迎えに来たので空港へ。バスの隣りに座ってた日本人カップルは二人とも左上腕部に刺青がありました。しかしいくら道が空いてるからといってあまりにも速度を出し過ぎなのではないか。軽いショックがあったら確実に思い切り横転してしまうくらいには速度が出てました。でも無事空港に到着、時間ぴったりですぐにチェックインし、上階のバーガーキングで時間つぶし、でもってボーディングタイムが近づいたのでイミグレーションを通る。残金がまだちょっとあったので免税店の商品をみたところ、なんでここはこんなに高いの。結局小さなチョコレートを買ってタイバーツをほぼ使い切る。そしてエア・インディアの出るゲートへ。するとやはりテロの影響か、やたらめったら荷物チェックが厳しい。まず手前でX線による荷物チェックで、今まで気にとめられたことのないカッターを預けることに。預かり証を渡され、成田で受け取れとのこと。でもってゲート内では今度は鞄を開けられ、内部まで調べられる。彼らの荷物検査の仕方はかなりいい加減で、検査することでこちらが動揺することがあれば要チェックという程度のものらしく、鞄をあけるんだけどじゃあ荷物を全部出して一つ一つ念入りに確認てことはしない。もちろんそれでこちらはいいんだけど、しかしあれじゃあ結局何か持ち込むことはかなり簡単に出来ちゃうよ。そして機内へ。出発は深夜1時近くとなり、飛び立ってすぐに機内のライトは消されてお休み時間となる。しかしもちろんデリケートな俺としてはなかなか眠れません。やっとうとうとしてきて、半分夢の中で飛行機が墜落するとわかったときの乗客の心境ってどんなもんなのかなあとか思った瞬間に飛行機が乱気流に突入し、今の思考と寝ぼけとがあいまってこれで終わりかなどと一瞬思ったりしてしまった。

2002年5月21日火曜日

バンコク

 朝5時頃目覚める。本当は6時頃起きる予定だったが、トイレ行ってたらNMさんも起きたのでそのまま準備。朝飯は前回と同じようなメニューでトーストとバナナとゆで卵。空港へ。本日は2時間ちょいのフライト。NMさんと隣の席だったので殆ど会話してるうちにバンコクへ。バンコクはどうやら天気がそんなによろしくない様子。雨期か? 明日の晩発つからそんなに気にならんが。

 エアポートバスA2でカオサンへ。さすがに本日の宿では一人になりたかったところ、NMさんはカオサンでも民主記念塔寄りの一角、つまり正確にはカオサンではない辺りに常宿があるとのことだったので、ワットチャナソンクラム方面へ行くつもりの俺とは離れることに。NMさんの行く方面はややカオサンより手前なので彼は途中でバスを降りる。ここでお別れ。俺もその後すぐに降りることになると思ってたらバスは物凄い迂回してそれから10分くらいしてようやくカオサンの反対側へ。そこで降りる。どっちにしてもワットチャナソンクラムとは離れてしまうのだが。で、寺敷地内を通って周辺の宿を探す。結局あんまりよろしくない感じのうすぐらーい宿(名前もわからん)となる。今更だが最終日なんだしもう少しこぎれいな高いところでも良かったかなーと思うけどいいや。もう手遅れだし。

 で、荷物置いてからこの前もちょくちょく行った路上イサーン料理。おっさんは俺のことを覚えていてくれたようで、メニューがなかったんだけどいつもの肉(バーベキューといってた)ともち米が出てくる。それ食ってからバーツ残金に余裕がなかったので両替して、スクンビット通りのエアインディアオフィスへ。リコンファームしてからパンティーププラザへ。ぶらぶらしてると日本人てことでやたらと日本のアダルトビデオをコピーしたVCDを薦められたりする。しかしアダルトビデオだと言い張ってるくせにジャケットはヌードにもなってない井川遥だったりして信用おけません。その後サパーレックへ移動するが、その時点で午後6時を過ぎておりほとんど店じまいしてたので戻る。あとは夜までそこらの屋台で飯食ったりして過ごす。

2002年5月20日月曜日

リコンファーム

 本当はカトマンズへ戻ったらまた犬に噛まれた件で医者に他の地域での治療報告をするよう約束させられていたのだが、スケジュール的には治療そのものの日ではないし何しろ昨日のことがあってゆっくり寝たかったので約束破りました。で、ゆっくり起きてYAさんと朝食。それからタメル一周してカジノ2軒まわって(まわるだけで遊んでないが)ちょうど時間なので宿に戻ってチェックアウト。タクシーを拾いYAさんに手を振られながら一人空港へ向かう。
 少し時間が早かったので待ちながら同じ飛行機(ポカラ→ダッカ)に乗るという日本人のおっさん、NMさんと会話。どうやら他にこの飛行機に乗る日本人はいないらしく、おそらくはこの人とダッカで一緒の部屋になるんだろうと思ったが、はっきりいってこの人見た目は完全に昔のヒッピーくずれ。年齢も49歳とのことでばっちりですね。1980年から旅行してきたというし。ひげをのばしたりしてて、俺が今回接触しようと思いつつ果たせなかったというか果たしたくなかった自己陶酔型「旅人」(旅行者では決してなく)の親分のようなタイプの人であるが、しかしそういうスタイルに溺れる若者と違ってそれなりのポリシーでやってるせいかやな感じではなく安心。といいつつ失礼な記述してるとは思うが。
 チェックインカウンターが開いたので二人でボーディングパスを受け取ろうとするとどうもうまくいかない。何かと思ってるとリコンファームはしたかと問われる。してなかった。チケット買うとき何も言われなかったこともあり(バンコクから来る時はリコンファーム必要なかったし)、怪しいとは思いつつも忘れていたのである。そしたらリコンファームは必要でしかし今ここでリコンファームはすることはできないという。どうしよう。と思ったらとりあえずカウンターの横で待てとのこと。NMさんによれば多分空席が最終的にあればなんとかなるだろうとのこと。それを期待して他の乗客がチェックインしてる間待つ。しかし本日は行きの時とは異なり異常なまでに乗客が多く心配。が、心配は危惧に終わり乗れることになった。良かったー。今後はチケット買うときには何も言われなかったらリコンファーム必要か確認しましょう。しかしこんなトラブル続きで俺は本当に旅行人元社員なんだろうか疑問。
 で、乗り込んでわずか1時間でダッカに到着。空港からワゴンバスで、この前とは別のホテルへ連れて行かれる。しかし看板が一切出ておらず、どうやらビーマンバングラデシュ航空か何かのトランジット専用ホテルなのではないか。前回よりも部屋ずっといいし。そして予想どおりNMさんと相部屋。夕飯はカレー。美味い。その後シャワー浴びてNMさんはテレビ観てたけど俺は先に寝る。

2002年5月19日日曜日

ポカラ→カトマンズ

 書き忘れ。六本木で働いてたという人から聞いた話でもうひとつ。日本人はインドでよくぼられたりしやすい一番のカモであるという話があるが、彼によれば最もインドでインド人に悪い目にあわされるのは素朴なネパール人であるとのこと。
 でもって本日。早起きして荷物準備して、ゴータマさんに連れられて宿を出る。歩きながら以前ゴータマさんがオーナーやっててその当時俺も泊まったニューフレンドリーゲストハウスには『旅行人』スーパーマップの富永省三さんも泊まったことがあるという話を聞く。そこで約一ヶ月宿泊して地図を仕上げていたらしい。そういや5年前に泊まったプリーのラブアンドライフでも富永さん直筆の地図があった。結構いろんなところで富永さんとすれ違ってたのかもしれないですね。
 で、バスステーションへ。ポカラからカトマンズ行きのバスに乗り込む。先日からよく会う日本人女性、YAさんも同じバス。俺はツーリストバスってどこでブッキングしても結局同じ一つのバスにまとまるもんだと思ってたんだけど(過去のバス移動の経験と、今回バラナシ→ポカラ間のバスがどこ行ってもチケット買えなかったことに恐らく起因する思いこみ)、実際には複数の業者がいくつかバスを出していたことを今更ながら知ったのであった。値段も上は700ルピーくらいまであるらしい。その場合はバスにトイレも付いてたりするらしい。だけど俺もYAさんも200ルピーのワゴン車をちょっとでかくしたようなバス。ちなみにこのバスに乗ってる外国人ツーリストは我々を含めて6人程度で、その他はどうやら現地のネパールの方々ばかり。バスは朝7時に予定通りきちんと出発した。到着予定は午後2時。早々と到着してのんびりできる非常に余裕のある移動である。
 バスは実に順調に進んだ。朝飯休憩とったりしながらすいすい。だが事件は午後1時過ぎに起きた。突然渋滞となり車が前へ進まなくなったのである。道は山に沿ってカーブを描いており、そのためかなり先まで見えるんだけどそこにずらーっと車が並んでいてどこまでこの渋滞が続いてるのかさっぱりわからん。ごくたまにちょっと進むんだけどすぐにまた止まる。なのでもうどのバスの乗客も(やたら沢山のバスだらけ。ネパールは鉄道がないので長距離移動はバスばっかりなのである)みんな降りてそこらをぶらぶら。そのうち何やらネパール人によるかけあい漫才のようなものまで始まる始末。対向車線はたまーに向こうから車が来るけど基本的には殆ど来ず、てことはきっとどっかで一車線になってそれで渋滞が起こってるんだろうなあとか思うのだが、その対向車線を使って進もうとする車も多く、そういうのが対向車の行く手を阻んできっとさらなる渋滞を招いているのではないか。そんなこんなで気付くと到着予定時刻なんぞとっくに過ぎている。そして雨も降ってきたりして、ようやく渋滞の原因と思われる、どうやら土砂崩れを起こしたために一車線となってるところを通り過ぎる頃には外はもう真っ暗、夕飯休憩を挟んでカトマンズに到着した頃には夜の11時をまわっており、バスの天井に乗せていたバッグはビニールシートがかぶせられていたにもかかわらず中までびっしょり濡れていたのであった。
 そしてタメルへ入るともう殆どのシャッターは下ろされ、ゲストハウスの大半も電気が消されており、でも一応ゴータマさんが紹介してくれたムスタングゲストハウスへ行くとやはりここも真っ暗。チャイムを押して出てきてもらい、YAさんとシェア。しかし着替えは全部濡れてるためにシャワーも浴びれず寝るのであった。といってもベッドに入って電気消してからも延々とかなりどうでもいい会話をし続け、そろそろ寝ましょうといって黙った後もやたらと俺は寝付きが悪く、朝までうとうとという状態が続くのであった。