2009年2月10日火曜日

生命、宇宙、その他もろもろ(=42)

 ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』小説版全5作を読む。シリーズは以下のとおり。

銀河ヒッチハイク・ガイド
宇宙の果てのレストラン
宇宙クリケット大戦争
さようなら、いままで魚をありがとう
ほとんど無害
銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫) 宇宙の果てのレストラン (河出文庫) 宇宙クリケット大戦争 (河出文庫)
さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫) ほとんど無害 (河出文庫)
 すべて安原和見訳の河出文庫版。地球を滅亡直前に脱出して宇宙の真理とそのそもそもの疑問を求めての宇宙旅行に同行させられる凡人の数奇な人生を描いたイギリス産のSFコメディで、次から次へと投入されるバカバカしいのに秀逸なアイデアに心奪われる傑作ではあるのだが、しかしシリーズ最終作『ほとんど無害』のエンディング、あれはひでえよ、と思ってしまうのも事実です。
 前もって憤慨する人が多いラストだと知らされてはいたものの、繰り返すけどあれはいけません。かくなる上は別メディアでいいからあの状況を踏まえて救う続編を作るべきなのではないか、と思ったら、訳者あとがきにその予定があったらしいとの記述が。ダグラス・アダムスが他界してなければ実現したのかと思うと残念だが、その気があったというだけでも救いといえば救いか。
 そしてアダムスの死後に放送されたラジオドラマ版では実際に独自のエンディングが追加されているとのこと。その上今年の10月には別著者による小説版第6作が刊行予定という話なので、「絶対にダグラス・アダムス本人の手によるものじゃないと認めない!」ということでなければ気分的に落ち着くことでしょう。

 で、そんなところで手っ取り早く、しかも実にしっかりとそうした気分を救ってくれるのが映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』ではないか、と思うのですがどうでしょう。
 主要キャラクターにもかかわらず、小説版ではヒロインのトリリアンの存在感がやや乏しく主人公アーサーとの関係性もあんまり深く追及されず、ちらっとだけ観たテレビドラマ版のトリリアンなんて脇役以上の要素がまるで見られない雰囲気で(最後まできちんと観れば違うかもしれないけどDVDの返却日が来てしまったのでわからない)、要はダグラス・アダムスは実はあんまりキャラクターに愛着がないんじゃないか、とか思うのですが、映画版ではこのトリリアンの扱いが急激に上昇しており、このことが同時にシリーズで描かれていた割合真面目な要素を一点にまとめることに貢献している気がするのです。というか映画版トリリアンのキャラクター性が物凄く好みなタイプなわけなんですが。
 ちなみに映画版トリリアンを演じたズーイー・デシャネルの田舎っぽい雰囲気もトリリアンの人物像を際立たせる要因だと思うが、しかしちょっと調べたらズーイー・デシャネルって普段はおしゃれセレブ的扱いを受けてる人のようだったので少々がっかり。どうでもいい話ですね。
 また、日本一のダグラス・アダムスのファンサイト(と、『ほとんど無害』巻末の大森望の解説にある)「Share and Enjoy」に掲載されている映画評を読むと、この映画版は単なる映画化ではなくてアダムスという人物そのものへの壮大なオマージュとなっているようで、正直なところ初見時にはいろいろな部分で説明不足に思えたものの、小説版とあわせて観直すと細部でいちいちぐっときます。ラストでアダムスのどアップが画面いっぱいにひろがって、その直後に「for DOUGLAS」と出てエンドロール、という流れはダグラス・アダムスに関してあまり知らなくても泣けるけど。これぐらいはネタバレにならんだろ。
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 と、そんなわけで小説版を読み終えたときには「映画もシリーズ化してオリジナルの6作目を作ってほしいなあ」と思ったんですが、映画版を再々見したら、ストーリーは一作目のものながら、小説版5作で描かれたエッセンスは凝縮されてる気がしたので、下手にシリーズ化せずにあれで良かったとも思います。フェンチャーチが出てきたときのトリリアンの扱いとか、映画版のラストから考えると展開しづらそうだし。『さようなら、いままで魚をありがとう』に出てくる「神の最後のメッセージ」をマーヴィン絡みの感動的なシチュエーションも含めてスクリーンで観てみたい気もするけど。

 ちなみになにゆえ「小説版」と呼び「原作」と呼ばないかというと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はもともとラジオドラマとしてスタートしたものであり、そのノベライズとして刊行されたのが小説版だからです。

 以上、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に関して思うことを書いてみたが、なんかまとまりない上にどういう作品なのかもよくわからないかもしれないですね。とりあえず、グーグルの計算機能にもサポートされた「すべての回答」を筆頭に(試しにグーグル電卓機能で「生命、宇宙、すべての答え」などと入れてみるとわかります)、この宇宙やそれを作ったかもしれない神のデタラメさを徹底的に追及してしかもある意味本気で納得させられてしまう最高に深淵にして最強に下らない大傑作SFコメディである、ということだけ書いておきます。
 もっとちゃんと内容について把握したい方は小説を読んで映画を見るのが一番なのはいうまでもありませんが、別冊宝島『SF・ファンタジー映画の世紀』に私が書いてる映画版の紹介原稿もご参照いただけるとうれしいです。ブログの文章は推敲どころかろくに読みなおしもせずに書いてますが、仕事で書いてる原稿はもっとはるかにきちんと書いておりますので。宣伝。

 そしてダグラス・アダムスへの献辞があるリチャード・ドーキンス『神は妄想である』を読み始めてみた。
神は妄想である―宗教との決別 SF・ファンタジー映画の世紀 [別冊宝島] (別冊宝島 1596 カルチャー&スポーツ)


【補記】
 この記事をアップした後に小説版一作目のおしまいの方をざっと読み返してみたんだけど、小説では中断されてしまうスラーティバートファーストの仕事が、映画版では「せっかくここまでやったんだから」と成し遂げられてるわけで、そういう意味でも映画版製作者たちにシリーズ化の意図は最初からなかったんじゃないか、という考え方もできる気がする。
 ダグラス・アダムス自身による小説版はもちろん大好きだが、彼の遺稿を使いながら新たな脚色が施された映画版も小説版を補完して完結させた感動的な作品だと改めて思ったりしました。映画は映画で小説を読んでないとよくわかんないところが多々あるけど。

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