2002年5月23日木曜日

帰国

gen1971gen2002-05-22    
 機内でなんとか少し眠ったのだが、飛行機というものはどういう時間帯のフライトであろうと必ず何かしら食事を出すのは義務づけられているものなのか、この飛行機は朝8時頃成田到着だったためか6時頃、まだあんまり眠ってない時間に叩き起こされて食事。しかし朝っぱからなんだか油っぽいオムレツなんかは食えるはずもなく、フルーツだけ食べる。本当はヨーグルトも食べようとしたのだが、これが甘みの全くないほんとのプレーンヨーグルトで、しかもなんだか濃くてまるでおいしくないチーズのような味であった。結局ろくに食えないもののために睡眠時間1?2時間程度で起きることとなってしまったのであった。そして飛行機はその後すぐに成田着。検疫で狂犬病の注射できる病院情報を得て空港を出る。
   
 京成線の駅で『週刊文春』5/23号購入、帰りの電車で読みながら帰る。ここでアジアから帰って来ると東京はなんてどうたらこうたらと書くといかにもアジア帰りの旅人のようであるかもしれないが、そういうことを書くような人間だったら成田出てすぐに『週刊文春』なんて買って最近の情勢を見ようなどと思わないはずなのでそういうことはここでは期待しないでくださいね。
 
 最寄り駅へ着き、腹が減ったので松屋で牛飯。

 帰宅後荷物整理したり、旅行中に来ていた郵便物整理したり。『旅行人』5月号が到着。外へ出て駅前書店と駅書店で『TV Bros.』5/25→6/7号(東京ニュース通信社)、『SFマガジン』『ミステリマガジン』ともに6月号(ともに早川書房)、『ユリイカ』5月号(青土社)、文藝別冊『ゴダール』『澁澤龍彦』(ともに河出書房新社)、『COMIC BOX』6月号(ふゅーじょんぷろだくと)、『映画秘宝』vol.31(洋泉社)、『Cut』6月号(ロッキング・オン)購入。買いすぎ。そうこうするうちに夜が更ける。

2002年5月22日水曜日

デジタルコピー品

 旅行最終日。正午がチェックアウトだったので、その後荷物を置かせてもらってサパーレックへ再び出向く。行く途中カオサンの端っこでNMさんとばったり。挨拶してまた歩く。が、ようやくサパーレックへたどり着くと、なんとこの前カトマンズへ向かう前に確認のために寄ったときとは大きく異なり、まるで昨日の夕方というほどではないにしろかなりの店がシャッターを下ろし、開けてる店もプレステ本体を置き、また改造してる店も堂々とありながらもなぜかソフトはゲームボーイのものばかり。なので目に付いた店に順々にプレステソフトはないのかと問うとただただ皆ないというばかり。ない理由はみんなアイドントノウとのこと。単に英語が駄目なのかもしれないけど。俺も含めて。しかし根気よく聞いてまわった結果、どうやら現在警察によるここサパーレックの取り締まりが強化されているということが判明。なぜならここはブラックマーケットでプレステソフトも著作権侵害にあたるコピー品だから。といってもこの警察の取り締まり強化は永続的なものではなく、ここ数週間だけだろうとおっさんは言う。てことはつまり俺のタイミングが滅茶苦茶悪かったってことなのね。警察も気まぐれでこんなタイミングでやらないで欲しいわ。

 ケンタッキーで一休みしてパンティーププラザへ。でもってしかしパソコン用ソフトはほとんどウインドウズ用でしかも英語版だったりしていらないし、映画のDVDも結構あるけどどうせ画質悪いだろうし第一DVDといいながら実体はVCDだったりしそうなので単にひやかして外へ。カオサンにそろそろ戻ろうかなあと思ってたら土砂降り。仕方なくシャッター降りてる店の軒下で雨宿り。ある程度小降りになってきたところでトゥクトゥクでカオサンへ。ちょっと小腹が空いたので路上イサーン屋台で食ってネットやったりして時間つぶし、7時頃に宿へ。9時に空港へのバス(実際にはバン)がピックアップしにくるのでそれまでジュース飲みながら時間をつぶさせてもらう。途中この宿に数日滞在してるという日本人が話しかけてくるが、自分から話しかけてきたわりにはだるいだるいとばかり言っていてあまり会話にならず、結局彼はいたたまれなくなって自分の部屋に帰っていくのであった。

 ようやく9時を少しすぎてからバスが迎えに来たので空港へ。バスの隣りに座ってた日本人カップルは二人とも左上腕部に刺青がありました。しかしいくら道が空いてるからといってあまりにも速度を出し過ぎなのではないか。軽いショックがあったら確実に思い切り横転してしまうくらいには速度が出てました。でも無事空港に到着、時間ぴったりですぐにチェックインし、上階のバーガーキングで時間つぶし、でもってボーディングタイムが近づいたのでイミグレーションを通る。残金がまだちょっとあったので免税店の商品をみたところ、なんでここはこんなに高いの。結局小さなチョコレートを買ってタイバーツをほぼ使い切る。そしてエア・インディアの出るゲートへ。するとやはりテロの影響か、やたらめったら荷物チェックが厳しい。まず手前でX線による荷物チェックで、今まで気にとめられたことのないカッターを預けることに。預かり証を渡され、成田で受け取れとのこと。でもってゲート内では今度は鞄を開けられ、内部まで調べられる。彼らの荷物検査の仕方はかなりいい加減で、検査することでこちらが動揺することがあれば要チェックという程度のものらしく、鞄をあけるんだけどじゃあ荷物を全部出して一つ一つ念入りに確認てことはしない。もちろんそれでこちらはいいんだけど、しかしあれじゃあ結局何か持ち込むことはかなり簡単に出来ちゃうよ。そして機内へ。出発は深夜1時近くとなり、飛び立ってすぐに機内のライトは消されてお休み時間となる。しかしもちろんデリケートな俺としてはなかなか眠れません。やっとうとうとしてきて、半分夢の中で飛行機が墜落するとわかったときの乗客の心境ってどんなもんなのかなあとか思った瞬間に飛行機が乱気流に突入し、今の思考と寝ぼけとがあいまってこれで終わりかなどと一瞬思ったりしてしまった。

2002年5月21日火曜日

バンコク

 朝5時頃目覚める。本当は6時頃起きる予定だったが、トイレ行ってたらNMさんも起きたのでそのまま準備。朝飯は前回と同じようなメニューでトーストとバナナとゆで卵。空港へ。本日は2時間ちょいのフライト。NMさんと隣の席だったので殆ど会話してるうちにバンコクへ。バンコクはどうやら天気がそんなによろしくない様子。雨期か? 明日の晩発つからそんなに気にならんが。

 エアポートバスA2でカオサンへ。さすがに本日の宿では一人になりたかったところ、NMさんはカオサンでも民主記念塔寄りの一角、つまり正確にはカオサンではない辺りに常宿があるとのことだったので、ワットチャナソンクラム方面へ行くつもりの俺とは離れることに。NMさんの行く方面はややカオサンより手前なので彼は途中でバスを降りる。ここでお別れ。俺もその後すぐに降りることになると思ってたらバスは物凄い迂回してそれから10分くらいしてようやくカオサンの反対側へ。そこで降りる。どっちにしてもワットチャナソンクラムとは離れてしまうのだが。で、寺敷地内を通って周辺の宿を探す。結局あんまりよろしくない感じのうすぐらーい宿(名前もわからん)となる。今更だが最終日なんだしもう少しこぎれいな高いところでも良かったかなーと思うけどいいや。もう手遅れだし。

 で、荷物置いてからこの前もちょくちょく行った路上イサーン料理。おっさんは俺のことを覚えていてくれたようで、メニューがなかったんだけどいつもの肉(バーベキューといってた)ともち米が出てくる。それ食ってからバーツ残金に余裕がなかったので両替して、スクンビット通りのエアインディアオフィスへ。リコンファームしてからパンティーププラザへ。ぶらぶらしてると日本人てことでやたらと日本のアダルトビデオをコピーしたVCDを薦められたりする。しかしアダルトビデオだと言い張ってるくせにジャケットはヌードにもなってない井川遥だったりして信用おけません。その後サパーレックへ移動するが、その時点で午後6時を過ぎておりほとんど店じまいしてたので戻る。あとは夜までそこらの屋台で飯食ったりして過ごす。

2002年5月20日月曜日

リコンファーム

 本当はカトマンズへ戻ったらまた犬に噛まれた件で医者に他の地域での治療報告をするよう約束させられていたのだが、スケジュール的には治療そのものの日ではないし何しろ昨日のことがあってゆっくり寝たかったので約束破りました。で、ゆっくり起きてYAさんと朝食。それからタメル一周してカジノ2軒まわって(まわるだけで遊んでないが)ちょうど時間なので宿に戻ってチェックアウト。タクシーを拾いYAさんに手を振られながら一人空港へ向かう。
 少し時間が早かったので待ちながら同じ飛行機(ポカラ→ダッカ)に乗るという日本人のおっさん、NMさんと会話。どうやら他にこの飛行機に乗る日本人はいないらしく、おそらくはこの人とダッカで一緒の部屋になるんだろうと思ったが、はっきりいってこの人見た目は完全に昔のヒッピーくずれ。年齢も49歳とのことでばっちりですね。1980年から旅行してきたというし。ひげをのばしたりしてて、俺が今回接触しようと思いつつ果たせなかったというか果たしたくなかった自己陶酔型「旅人」(旅行者では決してなく)の親分のようなタイプの人であるが、しかしそういうスタイルに溺れる若者と違ってそれなりのポリシーでやってるせいかやな感じではなく安心。といいつつ失礼な記述してるとは思うが。
 チェックインカウンターが開いたので二人でボーディングパスを受け取ろうとするとどうもうまくいかない。何かと思ってるとリコンファームはしたかと問われる。してなかった。チケット買うとき何も言われなかったこともあり(バンコクから来る時はリコンファーム必要なかったし)、怪しいとは思いつつも忘れていたのである。そしたらリコンファームは必要でしかし今ここでリコンファームはすることはできないという。どうしよう。と思ったらとりあえずカウンターの横で待てとのこと。NMさんによれば多分空席が最終的にあればなんとかなるだろうとのこと。それを期待して他の乗客がチェックインしてる間待つ。しかし本日は行きの時とは異なり異常なまでに乗客が多く心配。が、心配は危惧に終わり乗れることになった。良かったー。今後はチケット買うときには何も言われなかったらリコンファーム必要か確認しましょう。しかしこんなトラブル続きで俺は本当に旅行人元社員なんだろうか疑問。
 で、乗り込んでわずか1時間でダッカに到着。空港からワゴンバスで、この前とは別のホテルへ連れて行かれる。しかし看板が一切出ておらず、どうやらビーマンバングラデシュ航空か何かのトランジット専用ホテルなのではないか。前回よりも部屋ずっといいし。そして予想どおりNMさんと相部屋。夕飯はカレー。美味い。その後シャワー浴びてNMさんはテレビ観てたけど俺は先に寝る。

2002年5月19日日曜日

ポカラ→カトマンズ

 書き忘れ。六本木で働いてたという人から聞いた話でもうひとつ。日本人はインドでよくぼられたりしやすい一番のカモであるという話があるが、彼によれば最もインドでインド人に悪い目にあわされるのは素朴なネパール人であるとのこと。
 でもって本日。早起きして荷物準備して、ゴータマさんに連れられて宿を出る。歩きながら以前ゴータマさんがオーナーやっててその当時俺も泊まったニューフレンドリーゲストハウスには『旅行人』スーパーマップの富永省三さんも泊まったことがあるという話を聞く。そこで約一ヶ月宿泊して地図を仕上げていたらしい。そういや5年前に泊まったプリーのラブアンドライフでも富永さん直筆の地図があった。結構いろんなところで富永さんとすれ違ってたのかもしれないですね。
 で、バスステーションへ。ポカラからカトマンズ行きのバスに乗り込む。先日からよく会う日本人女性、YAさんも同じバス。俺はツーリストバスってどこでブッキングしても結局同じ一つのバスにまとまるもんだと思ってたんだけど(過去のバス移動の経験と、今回バラナシ→ポカラ間のバスがどこ行ってもチケット買えなかったことに恐らく起因する思いこみ)、実際には複数の業者がいくつかバスを出していたことを今更ながら知ったのであった。値段も上は700ルピーくらいまであるらしい。その場合はバスにトイレも付いてたりするらしい。だけど俺もYAさんも200ルピーのワゴン車をちょっとでかくしたようなバス。ちなみにこのバスに乗ってる外国人ツーリストは我々を含めて6人程度で、その他はどうやら現地のネパールの方々ばかり。バスは朝7時に予定通りきちんと出発した。到着予定は午後2時。早々と到着してのんびりできる非常に余裕のある移動である。
 バスは実に順調に進んだ。朝飯休憩とったりしながらすいすい。だが事件は午後1時過ぎに起きた。突然渋滞となり車が前へ進まなくなったのである。道は山に沿ってカーブを描いており、そのためかなり先まで見えるんだけどそこにずらーっと車が並んでいてどこまでこの渋滞が続いてるのかさっぱりわからん。ごくたまにちょっと進むんだけどすぐにまた止まる。なのでもうどのバスの乗客も(やたら沢山のバスだらけ。ネパールは鉄道がないので長距離移動はバスばっかりなのである)みんな降りてそこらをぶらぶら。そのうち何やらネパール人によるかけあい漫才のようなものまで始まる始末。対向車線はたまーに向こうから車が来るけど基本的には殆ど来ず、てことはきっとどっかで一車線になってそれで渋滞が起こってるんだろうなあとか思うのだが、その対向車線を使って進もうとする車も多く、そういうのが対向車の行く手を阻んできっとさらなる渋滞を招いているのではないか。そんなこんなで気付くと到着予定時刻なんぞとっくに過ぎている。そして雨も降ってきたりして、ようやく渋滞の原因と思われる、どうやら土砂崩れを起こしたために一車線となってるところを通り過ぎる頃には外はもう真っ暗、夕飯休憩を挟んでカトマンズに到着した頃には夜の11時をまわっており、バスの天井に乗せていたバッグはビニールシートがかぶせられていたにもかかわらず中までびっしょり濡れていたのであった。
 そしてタメルへ入るともう殆どのシャッターは下ろされ、ゲストハウスの大半も電気が消されており、でも一応ゴータマさんが紹介してくれたムスタングゲストハウスへ行くとやはりここも真っ暗。チャイムを押して出てきてもらい、YAさんとシェア。しかし着替えは全部濡れてるためにシャワーも浴びれず寝るのであった。といってもベッドに入って電気消してからも延々とかなりどうでもいい会話をし続け、そろそろ寝ましょうといって黙った後もやたらと俺は寝付きが悪く、朝までうとうとという状態が続くのであった。

2002年5月18日土曜日

子猫その後

 ポカラ最後のチベタンブレッド。調理中にカンチャくんがさりげなく(というふりして多分半分は本気かも)自分が日本で働いてみたいということをちらっと話すが、さりげなさのおかげでこちらも冗談としてその場を流すことができて助かる。すまん。俺は何の力にもなれん。その後ポカララストデイということでレイクサイド方面まで散歩。もう本当にツーリストがいない。不思議なくらい。ツーリストに寄ってくるトレッキングガイドもいない。
 適当な店でスプライト飲んで山本周五郎『日日平安』(新潮文庫)の表題作読む。『椿三十郎』の原作なわけだが、映画も相当に穏やかな感じだったと記憶するがこちらもまた輪をかけてのんびりしたお話である。その間抜けさかげんが楽しいわけだが、よくまあこれを『用心棒』の続編にしようなんて思うよね。普通だったらまったく別の映画として作ろうと思うんではないか。あの桑畑三十郎がのんびりした人たちに翻弄されるっていうシチュエーションが楽しいのではないかとひらめいたのかしらね。事実そのとおりだし。
 で、またぶらぶらしながらダムサイド方面へ。マウント富士MOMOレストラン横に子猫の様子を見に行くと、やはり二匹とも死んでいた。一昨日母親らしき猫が近くに様子見に来てたから大丈夫かと思ったのだが駄目だった。関わらなきゃよかったよ。さらに歩いてアニールモモ隣のネパーリーキッチンへ。『マスターキートン』1巻読みながら焼き肉定食。米は水っぽくすることで日本風にしており、肉も味は頑張っているがなんかやっぱり俺はアニールモモの味付けの方が好きだな。本はこちらの方が多いんだが。
 その後ネット。宿に戻って明日は朝早くて両替なんぞしてる余裕がなさそうなので今のうちに宿代等支払う。宿の並びの奥さんのお姉さんが経営する店でスプライト。部屋でごろごろしてたら停電でファンが止まったので散歩に出る。と思ったらすぐに雨が降ってきたので戻る。ゴータマさんからカトマンズに友人のやってる宿があるから連絡しようかとのこと。自分でいろいろ探すのもめんどくさいのでお願いする。タメルのムスタングゲストハウス。
 夕方になったのでやたらゆっくりした足取りでアニールモモへ行きとんかつ定食。少しすると今までみかけなかった日本人のおじさんが一人来る。挨拶だけする。その後昨日も会った日本人女性がやってくる。どうやら彼女はこのおじさんとも顔見知りだったらしく会話となる。店にいる間は土砂降りだったが、帰りは雨が止んでいた。しかし戻ってシャワー浴び終える頃にまた雨。タイミング良かったね。明日は朝7時のバスでカトマンズ行き。以前は宿までピックアップに来てくれたのだが最近はそれはやってないらしくバスターミナルまで歩いて行かねばならない。場所をアニールモモで彼女から聞いたところ、スノウリからのバスが着いたところではないというのでちと早めに起きて確認した方がいいのかもしれないね。ということで早めに寝る。

2002年5月17日金曜日

GHUMTO

 朝食はそろそろチベタンブレッドにも飽きたのでレモンシュガーパンケーキ。しかしこれはいまいち。前にも一度食っていまいちだったことを思い出した。それからカンチャくんと、ゴータマさんの義理の弟くんと3人でネパール映画。しかしカンチャくんの仕事がおしたためかタクシーで出かけることに。メーターで約60ルピー。ワリカンで一人20。で、映画。義理の弟くんは自分で払い、俺は約束どおりカンチャくんの分も払う。一人40。作品は『GHUMTO』とかいうタイトル。ネパール語で表記されていたのを弟くんに頼んでアルファベット表記にしてもらってるのでこれで正しいかは不明。でもアルファベット表記がどこにもないので仕方ありません。内容は身分の低い女性と高い男性のラブストーリー。はっきりいってこれが新作なのかと思うくらい古臭い。フィルムにも雨降りまくってるし。例によって光量も少ないので画面ぼんやり。でもやっぱり歌って踊って3時間で、ネパール人の観客はどうでもいいようなギャグに大ウケしていて大層楽しそうである。でも俺はさして面白くなく、これがネパール映画の水準であるらしいとわかったことでもういいや。休憩時間に売り子がジュースやらお菓子やら持って客席を練り歩くのだが一昨日と同様ここでも売り子は基本的に子供なのであった。
 映画見終わってバスで帰る。俺はレイクサイド方面へ。また全然客のいない、やや高そうな店でエッグカレーとナン。95ルピー。高いよ。味は普通。食後ダムサイド方面へ。マウント富士MOMO横の子猫を、あんまり確認したくないけど気になってしまうので確認。一匹だけ見えるが動かず寝てるのか死んでるのかわからん。はっきりしないけど死んでたらいやなのでそのまま歩いてネット。宿へ戻って本読んだりして、7時半頃になったのでアニールモモへ。そしたら先日会った日本人女性がいたので話しながらお好み焼き。どうやら彼女も明後日俺と同じバスでカトマンズへ向かうらしい。途中停電があり電気が戻った9時過ぎにレストランを出て宿へ。シャワー浴び終えるとノック。カンチャくんであった。しかしまだ裸であることがわかるとじゃあいいとのこと。どうやら俺と話をしたかったらしい。すまんね、もう寝るし。しかし話をしたかったってのは何かしら。日本で働くためのビザ取得のための保証人になってくれとかいうのかしら。明日は逃げ回ろうか。実際保証人になったりしたらどのくらいの責任がこっちにくるのかわんないしなあ。でもこの前ちらっとそういう話(日本に行くには保証人が必要だという話。俺がなってやるなどということは一切匂わしてないつもりではある)になったときかなり本気だったしなあ。困ったよ。

2002年5月16日木曜日

ボート漕ぎの青年の話

 今朝もチベタンブレッド。食いながらカンチャくんに今日こそはネパール映画に行くかと確認すると、今日は宿が自分一人だけになって大変忙しいので行けないとのこと。食事してるとその言葉を裏付けるかのようにおめかしした奥さんが現れる。どこへ行くのかと問うとちょっと考えて(奥さんは英語が苦手らしい)フォークソングとのこと。ネパールの伝統音楽コンサートに家族で行くようである。俺も飯食い終わってから外へ。しかし今日の予定は映画と思ってたためか特にあてもなくどうしようかなあと歩いてると、そういえば今回湖をまともに眺めてなかったということに気付いたのでダムサイド側ではあるが湖の公園へ。すると地元の若者が日本語で話しかけてくる。しばらく会話してるとボート漕いで金稼いでるということが判明。本業はトレッキングガイドだけどオフシーズンなので、とのこと。が、ボート強要する感じが全くなかったので乗ることにする(強要されたりしつこいと確実に断ってしまいます)。1時間180ルピー。自分で漕げば100だが人任せの方が楽です。ボートに乗っている最中、彼が以前日本にいてネパール語の先生をやってた話とかトレッキングのときの話とかをひたすら聞き続ける。そのため一応ペワ湖の南側をゆっくり移動してたんだけどあんまり風景は見てませんでした。ちなみにいろいろ話を聞いたことからわかったことなのだが、どうやら彼はフェラチオされるのは嫌いだということである。あと、ネパールのジキジキは先日某人物に1000ルピーであると聞かされていたのだが、彼によれば5000ルピーくらいが相場とのこと。どっちでもいいんだけどね。その他、日本人がキノコを食べたいというので一緒につきあってほんのちょっとだけ食べたら一日中ききっぱなしで恐くてもうやりたくないという話。酒の方がいいよと言っていた。あと聞いた嫌な話としては、外国人ツーリストの中には山の子供たちにはした金を握らせて性奴隷にしてる連中もいるらしい。もちろんその中には日本人もいるらしい。大変嫌な話だと思う。
 ボートを降りてからマウント富士MOMOで生姜焼き定食。子猫は相変わらずよちよちしてやはり心配だが、みてたら親猫らしいのが様子見に来てたので多分大丈夫だろうと思う。二匹の子猫は互いに離れてるとにゃーにゃー鳴いてるが近づけると落ちつく。食後ぶらぶらとレイクサイド方面へ。今日は気のせいかいつも以上にツーリストの姿が少ない。途中のレストランで読書でもしようと入ってスプライトとバニラシェイク。飲み終えた頃に一人の日本人が現れ会話。店を出て別れて歩き出すと土砂降りに。雨宿りしつつ雨の中をダムサイド方面へ。かなりまたふりがひどくなったところでマウント富士MOMOに避難。身動きとれないのでスプライトとフライドポテト。子猫たちの様子も見ながら食べる。一匹の動きが弱々しくなりつつあるみたいでちょっと心配。雨が止んだのでマウント富士MOMOを出てネット。宿に戻って荷物を置いて、夕食のためにアニールモモへ。なんだか食ってばかりいるような日記である。こうして日が暮れて宿に戻ってシャワー浴びて読書。蔵前仁一『旅で眠りたい』(新潮文庫)読了。元上司の本で語りづらいので感想書きません。でも面白いですよ。再読だし。つまらんかったら再読しないもの。

2002年5月15日水曜日

ポカラ日本語文化センター

gen1971gen2002-05-14 
 朝6時に起き、6時半過ぎに宿主ゴータマさんと彼の奥さんの弟と3人で、雨の中タクシーでポカラ日本語文化センターへ。ゴータマさんらが受けている日本語授業にゲスト参加。かなり内容の難しい授業である。例えば他動詞を自動詞に直させたりとか(例:消す→消える)、イラストを見せてそれぞれ他動詞自動詞の2パターンの状況を言葉にさせるとか。漢字も学習してたりするし、しかも先生は全て日本語で授業を進める。他にも決まった回答のない質問をしてみたりとか、例えば「?さんは日本語を勉強してどうするつもりですか」とか。これは「つもり」という言葉のニュアンスを掴むためのものだと思うのだが、しかしもしかしたらかなりプライベートな部分を聞いてるものでもあり、これは結構別の意味で難しいと思う。クラスの人数も少なく(俺を除いて6人)、そのためか落ちこぼれちゃってる人がいたんだがやたらと目立ってしまう。ちなみに奥さんの弟さんはワンランク下のクラスで別でした。で、とにかく先生はもうよっぽどのことがないとネパール語で説明しないのね。ただ、やはり日本語及び日本の事情についてわかんないところもあって、たまに俺に質問してくる。かといって俺もきちんと説明できないことだったりもするので(大学院の修士・博士課程はそれぞれ何年間あるのかとか)答えられなかったりもする。すいません。しかしほんと、他動詞自動詞言い換えとか、日本語って英語以上に規則が各単語ごとに違うところがあるから、彼ら良く勉強してるなあと感心します。しかもみんなそんなに何年もやってるわけじゃないのよね。こっちの人の語学力には恐れ入る。まあ俺が語学が苦手なだけかもしれず、他の日本人のみなさんもこれくらいできるのかもしれないが。9時頃までお勉強してから宿へ。

 今日もチベタンブレッド。それからカンチャくんと映画の予定だったのだが、雨のために中止。どうやらちょっと彼は勝手に俺が映画代払ってくれるのを期待していたらしいのでそれは駄目と釘をさす。やはり甘い見通しだったと反省して抗議してこなかったので、後で俺のおごりだと約束してあげる。いい人だね僕って。自分でいうと格が下がります。
 昼頃まで読書して、本日もマウント富士MOMOレストランへ。昨日いた子猫は今日はいねえなあと思ってたらまたどこからともなく現れにゃーにゃーと鳴く。今日はあんまり相手しないようにしようと思ってたのだが、近所の子供が尻尾もってぶらぶらさせたりして乱暴に扱ってるのでついつい監視。近所の大人も様子を見出したので席につくが、どうも目に見えてる子猫とは別の位置からも子猫の鳴き声が聞こえる。どういうことかと思って外に出るとなんと子猫がもう一匹。しかもどうやらほぼ一緒に生まれたと思われる子猫。ああもう! で、食事してから小皿に水をやったりするが子猫はそれには目もくれない。しかし一匹よりは二匹の方が心強かろうと二匹を近づけたところ、互いの存在に気付いてじゃれあい始める。昨日に比べて衰弱したという印象はなかったので、後は近所の人たちがなんとかうまく面倒みてくれることを期待して宿へ。
 その後、昨日切れたカメラの肩ひもをしばったらうまく担げるようになったのでカメラ持って外へ。自転車を借りてレイクサイド方面へ向かう。なるべく行ったことのない道を進もうとずんずん行くといきなり肩ひものしばってたところがほどけてカメラ転落して地面に激突。拾うとカメラにひびが! 参った。残りのフィルム枚数が少なかったので適当に撮影して、とりあえず肩に担げないため片手に持って自転車片手運転で宿へ戻る。フィルムを抜くと感光には影響ないようだったが、しかしちとショック。96年だか97年から使っていたのである。帰国したら修理に出すべきか。それとも一眼レフはしばらくやめてちょっといいコンパクトカメラ(やっぱりバカチョンカメラて言い方はいけないの?)にすべきか。実際の話、俺は構図的には明らかにコンパクトカメラを使ってた時の方が面白いものを撮れていた自信があるのである。うーん。しかし一眼レフの機能も捨てがたいし。あんまり機能を有効に使ってないけど。一眼レフでコンパクトの時のようないい構図ができればいいんだが、どうも一眼レフにしてから対象全体を入れる大味な、なんだか記録用っぽいのばっかりになってるのよね。いまいち対象に近寄った大胆なのにならんというか。日本でも普段から持ち歩いてみるべきなのだろうか。これを修理して。そんなことを考えながらまた自転車で外へ出るが、しかし特に目的の場所があるわけではなく、何より疲れた。さっさと自転車を返し、ジャーマンベーカリーへ。チーズケーキとスプライト。
 宿に戻って屋上で読書。宮嶋茂樹『不肖・宮嶋 死んでもカメラを離しません』(祥伝社黄金文庫)読了。今日のタイミングと何かリンクしてないだろうか。面白いね。でも具体的なことは忘れました(旅行中の日記に感想書いてなかったし)。夜7時頃になったのでアニールモモへ数日ぶりに行きかつ丼。『マスターキートン』のおいてある分を読む。初めてまともにこの漫画を読んだけど面白いですね。手軽に読める冒険小説といった感じ。漫画だけどネタ的に。相当にアイデアをいただいたものもあるんだろうが。8時過ぎに宿に戻ってシャワー。寝る。

2002年5月14日火曜日

TUM SE ACHCHA KAUN HAI

gen1971gen2002-05-13 
 本日も朝は宿でチベタンブレックファースト。それからプリティビーチョークの先にあるという映画館へインド映画観に向かう。しかし行けども行けども映画館は現れず不安になりそこらのおねえちゃんに聞くとインディアシネマはこの先だといわれる。まだ途中だったのね。で、そのとおり進むと何やらゲートの上にぼろぼろになったインド映画のポスターが貼ってあるのを発見。その奥に映画館があった。ネパール映画は明日カンチャくんと観に行く約束になってたので映画館の前に立ってるおっさんにこれはインド映画かと一応確認。チケット40ルピーを一枚買って中へ。上映作品は『TUM SE ACHCHA KAUN HAI』。場内ロビーはインドの映画館に比べて狭い。さらにインドに比べて空いてる印象。この前のバラナシの映画館もインドにしてはやけに空いてたけどね。ロビーでは上映開始を待つ客の他に犬が歩いている。スプライトを買おうとカウンターに陳列されてるのを指さしたら売店のおばちゃんは冷蔵庫からミネラルウォーターを出してくる。違う違うこれこれとまたスプライトをさすとOKと今度はコーラ。また違うとやっとスプライトを出してもらって上階へ。2階は映写室で3階が客席の上部。旧文芸坐のような作り。もっと狭いけど。で、その上階のロビーが妙にうんこ臭い。と思ったらトイレがあった。しかしだからといってにおいがもれるのはどうか。くさいので場内へ。全くライトがついておらず足場が見えず転んだりしそうでちと恐い。すり足でなんとか客席へ。目が慣れてくる。それから数分後、正午になったあたりでようやく場内にライト点灯。音楽も流れる。するとすぐに上映開始。しかし先ほどから流れる音楽は止まない。映画のBGMでもない。するといきなり音楽が止まって映画の音声に切り替わる。いよいよ上映がきちんと開始。バラナシの映画館よりもしっかりと場内が暗くなり、今まで入ったインドのどの映画館よりも映写機の光量が強く映像かなりくっきり。ここはネパールだけど。
 
 映画はいきなり砂漠でのミュージカルシーンから始まる。そしてやけにシーク教徒が出てくる。これはラージャスターンでの話か? と思ったらそのとおりジャイサルメールでした。7年前の初めてのインド旅行で行ったきりであるがそのうちまた行きたいなあ。で、そのジャイサルメールでツアーバス運転手をやってる青年と、ツアーの添乗員でやってきたと思しき(言葉わかんないからあくまで推測です)ものすげえ美人さんが、この手のインド映画ではありがちな、初めはまずちょっといがみあいながら、ふと青年が奏でた歌がきっかけで打ち解けていくという展開。そしてこの青年、今はバス運転手をやってはいるが、実はミュージックスターになりたい。で、それはおいといて、彼と彼女はちょっといい感じになりそうだったのだが、彼が住むのはジャイサルメール。彼女はよそから来た、別に帰るところのある人。別れ。ある晩彼(名前はアージュン)は自分がスターになってる夢を見る。そして深夜に目覚め、今の自分はもうスターへの道は歩いていないと気付き泣きながらギターを火にくべる。が、父がすかさず炎の中からギターを取り上げ、息子の夢をかなえるべきであると考え、息子の都会(ボンベイ?)行きを許諾。アージュンはついに都会へ(ジャイサルメールもそれなりの都会ではないのかというのは無視)。そこでばったり添乗員の彼女と再会。あれよあれよという間に彼女一家のところに居候することに。そして音楽活動のため毎日いろんなスタジオをまわるが相手にされない。途中ディスコ(ほんとにディスコとしかいいようのない場所)で不良(ほんとに不良としかいいようのない人)にからまれるヒロインの妹を助けたりして大活躍。居候先のヒロイン一家での人気も大幅アップ。ちなみにこのディスコの格闘シーンで彼のケリが最初に炸裂した瞬間、映画館内では拍手喝采。しかしいくらスタジオ巡りをしてもさっぱり駄目。門前払いされた彼はストリートパフォーマンスを行うことに。その準備中とおりかかったヒロインほどではない程度のいい女に何やら馬鹿にされるが、いざパフォーマンスをはじめると大盛況。さっきのいい女も戻ってきて絶賛。そして運のいいことに、なんと彼女は業界にコネのある大金持ちの娘だった! 彼女のおかげでアージュンはついにプロデビュー。大人気となる。やがていい女はアージュンのことが気にかかるように。だがアージュン自身がほの字だったのはやはりヒロイン。それに気付いたいい女は銃を持ち出しアージュンに向ける。すんでの所でかわし、アージュンは彼女を改心させる。と思ったら、振り向くとすでに彼女はいず、山道を自動車で暴走。そのまま谷底へ転落していった。時は経ちそれから一年後。インドのミュージックアワードでグランプリを手にしているアージュン。受賞の場で感謝の意を表す彼、その姿はテレビでも中継されており、車椅子に座って虚ろな目をしたいい女がじっとみつめていた。ジ・エンド。と、物語の力点がラスト近くからちと違う方向へ移動してしまう映画ではあるが、しかし歌あり踊りあり(インド映画なら当たり前だが)、しかも豪華だし(これもインド映画なら当たり前か)、そうでないドラマ部分でも演出が洗練されており(これは結構珍しいと思う)、例えば『ムトゥ』のようなミュージカル以外はただ撮ってるだけといったようなことは全くないのであった。少なくとも俺はバラナシでみた『16 December』よりずっと面白かった。しかし上映環境に難ありで、観てる最中ガキが数名場内を歩き回って喋ってたりしてうるさいのね。しかも実は彼らは客ではなく、休憩時間には売り子に変身するのである。つまりこの映画館の従業員なのである。そいつらが上映中にうるさいんだから困ったもんだ。

 映画館を出てダムサイド方面へ。その途中カメラの肩ひもが切れ、カメラが地面に激突。傷はつくが壊れはしなかった。まあ長年酷使してるからな。ひもが切れてもおかしくありません。で、マウント富士MOMOレストランで唐揚げ定食を注文。この店も例年はオフシーズンでも日に20人くらいは客がいたというが、今年はやはり情勢が悪いせいで日に2?3人来ればいい方だという。ところでこのレストランの前で、生後1?2日程度の猫がにゃーにゃー鳴いていた。母猫は昨日この辺りを歩いていたというが今はいない。ほっとくと死にそうなのでなんとかしたいとついつい手を出してしまい水を与えたりしたのだが、子猫が全然落ち着かない。そうこうするうちに飯が出てきたので猫を隣の空き地に置いて飯。しばらくすると鳴き声が聞こえなくなり、みると姿もない。きっと何とかなるだろうと期待したいが下手に手を出したのが悪いことにならなければいいんだが。生まれたばかりのを母猫はほったらかさないで欲しいもんである。飯は米はともかくとしてそれなりにうまい。アニールモモよりも安いし。宿へ戻る。それからネット。そうこうしてるうちに夜になり、宿の通りの角にある店で肉を焼いててうまそうなのでそこで夕飯。宿に戻ってシャワー。寝る。

2002年5月13日月曜日

八月の博物館

gen1971gen2002-05-12 
 朝8時にきちんと起きてチベタンブレッドを食い、サランコットへ行く準備。トイレでうんこしながら瀬名秀明『八月の博物館』読了。SFかと思ってたら叙述トリックではないけどなんだかそういう部分を利用したファンタジーといった感じ。で、例によって今この日記をテキスト化してるのは約3カ月後の8/26で、もとになる当時の日記にはこの本の感想が書かれていないのです。面白かったしこれからどうなるのかさっぱり見当がつかないままどんどん進むしやや感傷的とはいえ物語も文章も巧いのですが、読了時の感想メモしてないんだよなあ。でもってこの本もこのとき泊まってたホテルのロビーに置いてあったものだから持ってきてないので今現在手元に現物がないのです。あ、ひとつ思い出したのだが、作者の分身といえる主人公の少年、かなりな好奇心の持ち主で、あたかもそれを当然であるかのように書かれているんだが、それなりに好奇心はなくはなかったとは思うもののそれを後まわしにして生きてきた私にはちとつらい。俺もこれくらい好奇心をすぐそのまま実行に移すように生きてくれば良かったのになあと作者が意図したところとは違うところで身につまされるのであった。あとは『バンデットQ』に似てるなあとも思った記憶がある。マリエットはあの映画のショーン・コネリーだ。
 
 で、日記内時間はこの日付に戻りまして、10時頃にサンダルを靴に履き替えてサランコットへ向かう。まずオールドバザールを抜けてサランコット登頂口までが実に遠く、つくともう11時。が、その登頂口と思ってたところは単なる展望台みたいなところで、周囲の人に聞くとどうやらここからまた違うところに出なくてはならないらしい。迷ってると周囲の人の一人がこっちだと言うので案内される側へ足を向けるとなぜかこいつが延々と俺をリードする。一般道に出てかなりわかりづらい順路でサランコット口へ。といってもこいつがそう言ってるだけで標識もなく実際のところよくわからない。ガイドブックは宿に置いてきちゃったし。後になってガイド代をくれなどと言われてもいやなので、お前はガイドか? 言っておくが俺はガイド代は払えんぞ、というと、自分はガイドではなく単なる学生だ。サランコットへ行く途中に俺の家があるから帰宅ついでだとの答え。それにしてはさっきの展望台みたいなところでいかにも俺を案内するためというタイミングで動き始めており、そういう点では実に胡散臭い。さらに俺がガイドブックの地図をみて頭に描いていた地図とどうも違うような気がして(結局これは地図どおりの道だったようではあるが)やはりこいつを信じられず、小道に入ったあたりの民家のおじさんに会う毎にこっちはサランコットか? と質問を繰り返してしまう。みんなそうだと答えるんだけど。で、そのあたりでいきなり彼の友人という奴がどこからともなくまるで狙い澄ましたかのように合流。またもう一度、俺はガイド代は払えないというが、彼らも我が家はこっちだからと言うばかり。そうこうしながら山道をどんどん進み、このあたりがぼくのうちなんだよなんて言いながらしかし自分の家を明確に示そうとはせずに一休み。3人で座りながら、しつこいようだが俺は本当に君らには一銭も払えないよと言うと(我ながらしつこいとは思うがなんとなく信用できない雰囲気があった)、我々はガイドじゃないからガイド代なんていらない、我々は学生だ、英語の辞書さえ買ってくれれば満足だなんてことを言い出しやがる。ここまで案内してから今更何を言うのか。この馬鹿どもが。ふざけんな。頭に来たので一人で行くと言って立ち上がり歩き出す。辞書が欲しいとか何か見返りが欲しいのなら初めから言えばいいのだ。その上で断られたのであれば連中だって無駄に歩かなくてもすむしこっちもむかつくこともない。前々からインドやらネパールやらはそうだが、先にこちらが頼んでもいない親切をしておいてから何か見返りを欲しがるという手口をやる連中が非常に多い。中には先に親切にされたからといって仕方なく払ってしまう人も多くいるからだろうが、このやり方は払おうが払うまいが気分は悪いだけだ。言葉の壁があるため、あとになって請求された場合に「手前が勝手に俺が頼みもしねえのに案内したくせに今になって金よこせじゃねえよ、はじめに言えよ」といった、相手のシステム的間違いを指摘しながらの文句を言えないのも立腹の要因の一つです。
 
 で、結局連中を残し一人でどんどん進んだ結果、あっという間に道に迷った。せめて獣道でもいいからあればいいのだが、それもよくわからなくなり、しかし足場になりそうな段差はあるのでとりあえず上に進む。下に降りて連中と再会なんてしたくないからね。すると上の方に民家を発見。道はないけどなんとかはい上がる。家の裏手に水牛やらの気配がしたので行くと娘さんが3人作業中。助かった。で、サランコットはこっち? とか聞いてるとお父さん登場。しかも英語を話せる。事情をカタコトだけど説明すると、まあ休めと椅子を勧め、水を汲んでくれる。もちろんミネラルウォーターではないのだがおいしくいただきました。それから道を教えてもらい途中まで案内されて、お別れしてまた山をのぼる。途中いくつも民家があるのでその場その場にいる人たちにサランコットの方向を確認してのぼっていく。すると何やら私有地のようなところに出て犬に吠えられるが、そこの住人とおぼしきおじさんがここを通りなさいと教えてくれ、さらにサランコットはこの道をまっすぐだと示してくれたところにはなんと車道がある。礼を言って車道に出て道なりに進む。しばらく行くといかにもツーリストのための食堂がいくつかあり、車道をはずれたところにサランコット行きの階段を発見。腹も減ったのでその横のレストランでジュースとインスタントラーメン。食い終えてまたのぼる。あとはもうとてもわかりやすい道。頂上近くにいくつものレストランとゲストハウスがあり、そこから数分のぼってついに山頂へ。といっても特に感動はないのだが。曇っててヒマラヤはちらっとしか見えないし。この時点で午後2時半頃。長かった。雲が動いてヒマラヤ見えるかもとしばらく待つが、3時頃になっても雲は動くけど相変わらず部分的にしか見えないので諦める。
 帰りは今来たのとは逆方向のレイクサイド方面から降りることにする。しかしこのレイクサイド方面ルートというのは一応あるんだけど、どうにも今来た道とは異なり狭くて急で危なそう。でも行く。途中車の通れそうな道と交差したりするが、しかしここは山道を降りたいのでそっちを選んでどんどん降りる。のぼりの時もそうだったのだが、途中現地の子供たち、というかガキと数回すれ違うのだが、こいつらったら外国人を見るとすぐに「キャンディー?」とか「1ルピー?」とか言ってくる。単に「ナマステー」「バイバイ」とか言ってりゃかわいいものを、どうも外国人は何かくれるものであると思ってるらしい。下りルートは上りよりさらにそれがひどく、ガキ3人がかけよってきて俺の手を握りかわいぶったあげく「キャンディー?」「ルピー?」「フォト?」だのしつこいったりゃありゃしねえ。手をふりほどいてさっさと歩いてくと石を投げてきやがる。届かないんだけど、でもこの投石が原因で遭難した旅行者もいるのではないか。まったくむかつくガキどもである。こんなガキどもを純朴な、我々が失った目の輝きを持つ子供たちなんていう反吐の出そうなことを言ったり書いたりした連中はどうにかなってしまえ。が、しかしこういうことをガキがするってことは、過去にキャンディーを与えたり金を与えたり写真撮ってそのお駄賃をあげたりした連中が結構いるってことだ。そのためにこのガキ連中は極めて素朴に外国人はお菓子とお金をくれるもんだと思いこんで素朴にそれをねだってるだけなのかもしれん。我々が失ったギラギラと欲望に輝く瞳を持ってな。この他にもガキがやたらとガイドを申し出たりとかありました。これだからガキって嫌い。念のために書いておくけどネパールの子供が嫌いなんじゃなくて、人間の子供ってものが嫌いだからね、その辺勘違いして抗議しないでください。
 で、そうしながらも歩いていく途中でジュース売ってるところがあったので飲む。観光地料金で25ルピー。細かいのが6ルピーしかなく、500ルピー札を渡す。すると店のお姉ちゃんは当然釣り銭がなく、下の方まで両替に行くことに。大変申し訳ない。20分ほど待ってるとお姉ちゃんが汗だくになりながら帰ってくる。がしかし、金額がでかかったため釣り銭が完全には集まらず、あと30ルピー足りないと困った顏。そこでじゃあコーラもう1本くれ、それを君にプレゼントだなどと日本人相手に日本語だったら恥ずかしくて言えないようなことを言って去る。しかしお姉ちゃんはコーラを飲もうとはしてなかったようで、きっとその30ルピーぼろもうけだと思うがまあいいや。うるせえガキどもに1ルピーあげるよりずっといいです。
 でもって降りてくと道はあるのにそれをさえぎる柵がある。しかし道は他にはないので柵を越えて降りていくと、どうも柵から先はやたらと落ち葉とかにまみれておりここんとこほとんど誰も歩いてないに違いないといった雰囲気。そして周囲は林に囲まれ薄暗く、人の気配がまったくなし。そんな中を延々一人で降りていく途中、がさごそと誰かの足音が聞こえ、人がいるのかと思ったら牛でした。柵でとおせんぼしてある道だったのでこの先どうなるのかわからないところをひたすら降りるが、まあこういう状況でどうにもならなかったことは今までないので気楽に構えて降りていくと林が開け、やがて民家も見えてくる。そこで庭仕事してるおばちゃんもいたのでレイクサイドはこっちかと確認。どんどこ降りてようやく先日自転車で走ったあたりに出る。この時点で4時半?5時頃。明るいうちで良かった。
 そっから延々とレイクサイドを通ってダムサイドへ。しかし今日のレイクサイドはここ数日中でも最も人気が少ないです。どうしたのかしら。小腹が減ったので夕飯にはまだ早かったがジャーマンベーカリーでチーズケーキとスプライト。一休みしてホテルに戻る。6時半頃着。随分歩いた。夜、食事に外へ。サランコットからの帰りにレイクサイドを通ったためか妙に西洋料理が食べたくなり、近くのやや高そうなバンブーガーデンへ。すると若い日本人女性がいたので挨拶して一緒に食事。彼女は8カ月ほど旅行していてあと1カ月くらいで帰国らしい。ちなみにこの人はホテルひまりに宿泊、バラナシではクミコハウスにいたということ。久美子さん一家は地元のマフィアにショバ代を払っていないため気楽に外を出歩けないとか地元民にもマフィアからの脅しがかかててるためにリキシャなんかも直にクミコハウスへ運んでくれないというような話を聞く。9時頃まで喋って戻り、本日の山歩きで生じた首筋の日焼けの痛みを我慢しつつ寝る。

2002年5月12日日曜日

パタレチャンゴとタシリン・チベット村

 ポカラに来てからどういうわけか夜は9?10時頃には眠くなり寝てしまうのだが、なぜか深夜とか朝方に目が覚めてその後数時間眠いのに眠れない状態が続く。でもってもう起きてもいいような時間に眠りにつき、結構遅い午前に目覚めるというリズム。今朝もそうで、なんと午前3時に目が覚めて以後しばらく眠れない。しかし朝7時頃にまた眠り目覚めると9時だか10時だか。実質的にそれなりの睡眠時間はとれてるのだが、間にロスタイムが入ってしかも頭はぼーっとしてるのでなんか無駄である。まあ旅行中だからいいんだけど(←実は帰国後の方がもっとひどいロスタイムだらけの生活になるのをこの時点ではわかっていない。というか旅行中って帰国したらあれもやろうこれもやろう毎日規則正しく忙しいなあとか計画だけは立てているものである)。で、10時頃に起きて宿のレストランでチベタンブレッドとレモンティ。
 サランコットに行こうと思ってたのだがカンチャくんがサランコットは朝がいいよなんていうからとりやめ。パタレチャンゴへ。そんなに遠くはないのだがいきなり街をはずれる感じでそのための土産物屋以外周囲はほとんど何もない。パタレチャンゴもDavi's Fallという別名を知らないと、その土地の土産物屋に埋もれていてわかりづらい。でもなんとか辿りつき、入場料10ルピー払って入る。滝。Davi's Fallって名前は60年代にデヴィという人が落ちて亡くなった(多分亡くなったということだったと思う。記憶違いかもしれないのでこの情報を孫引きしたりしないように。自意識過剰かしら)からこう呼ばれるようになったということで随分不謹慎ではある。某アイドルが飛び降り自殺したビルをユキコビルディングと名付けるようなもんではないか。周囲のパタレチャンゴとは全く無関係なものばかり売ってるチベタンの土産物屋をひやかす。仏教グッズのみならずやたらとアンモナイトの化石があったりアフリカの像があったりとかなり滅茶苦茶な品揃えであった。
 それからその先にあるタシリン・チベット村へ。平日昼間であるせいか、おばちゃんとガキとじいさんばっかり。平和そう。もろにチベット人の村である。当たり前です。かなり小さく、一通り見て帰ろうとすると二人のおばちゃんに呼び止められる。土産物なら買わないよと言うとどうもそうではないらしい。そこで話を聞くと、彼女らは5ドルと250円を持っており、しかし自分たちはパスポートがないので外貨の両替ができないから俺にルピーと替えてくれないかという。本来のレートよりこっちに都合のいいレートで言ってくるのでその場で計算して両替。そしたら250円の方のおばちゃんがうちに来いと言う。どうせ土産物を売りつけられるんだろうと思いつつもここで生活してる人の部屋を見てみたいというのもあったのでついてくと、案の定鞄から土産物をいろいろ次々と出してくる。買わないよといいつつ、結局ちょっと買ってしまう。ついでにお茶をいただく。もちろん睡眠薬を警戒してしまうのだが、ほんのちょっと飲んでも味もおかしくなかったからそのまま飲みました。問題なし。疑ってごめん。室内にはダライラマの写真が飾られていました。家を出て帰ろうとすると5ドルのおばちゃんが話しかけてきて土産物を見ていけとうるさい。もう買ったからもういいよと去る。他のおばちゃん連中も買っていけ買っていけとうるさい。よほど今客がいないことが堪えてるのかいつもこんななのか。
 村を離れて近くの子供の山羊がはね回ってる観光客向けの店でジュース飲んで宿方面へ。途中でダムの吊り橋方面へ。ダム下の川になってるところで洗濯してる人々と、岩のかなり高いところから飛び込む子供たちがいっぱい。吊り橋を無理矢理渡らされている水牛も数頭。
 宿へ戻り昼食タイムだったのでアニールモモへ。唐揚げ定食食べながら『柔道部物語』読了。小林まことの作品てのは作品内できちんと完結した世界観を持ってるためか、非常に職人的な感じもし、楽屋落ちなんかが一切なくて作者側が本気か冗談がわからないというのが特徴ではないかと思いますがどうでしょう(作者らしき人物がよくギャグとして出てくるがこれも鳥山明とかが出てきて作者側の言い分というかそういうのが表現されるのとはちと異なり、どういうわけか楽屋落ちではなくなってるという印象。うまくいえなくてすまん)。あと細かいこともいろいろ思ったと思いますが、旅行中に書いていたこの日記には感想が記されておらず、現在それをWEB用にテキスト化してるのはこの時点から3カ月以上あとの8月25日なので書いてられません。以後もそういうのが多数出てくると思いますが許してください。まあそもそも許す許さないという問題ではない程度のことしか書いてないが。
 宿へ戻って屋上で読書。夜になり、先日カーストについて離したレストランでチキンチョウメン。途中で停電。カーストの話をしたお隣さんがまた現れて会話。彼の兄はホテルひまりのオーナーだそうで、そちらには日本人の女の子も泊まっているという。なんと! でもめんどくさいから宿をかえたりしません。かえたあとでゴータマさんたちに会ったら気まずいし。その他彼から得た情報としては、現在とにかく観光客が少ないので客の少ないレストランは食材が回転しておらず、そのため下手に入ると古い食材を使った料理を出される可能性があるので空いてる店は気を付けろとのこと。他にも何かあったが思い出せず。というか実は後日思い出して日記には書いてるのだが、それをテキスト化してる今その部分がみつからないのでそれは書かれてる日のところで書きます。多分書いてたはず。で、本日は宿に戻っておしまい。

2002年5月11日土曜日

チベタンブレッドと日本人バックパッカーのマナー低下

 本日は雨。朝のうちはときどきやんだりしてたので本格的にやんだらサランコットに行こうと思ってたが、ゴータマさんに聞くと今日はやめといた方がいいだろうとのこと。もっときちんと晴れてからの方がいいらしい。景色が重要だしね。で、ホテルのレストランでチベタンブレッドを作ってもらう。正確にはチベタンブレックファーストでバター茶がセットなのであるが俺はバター茶が苦手なので普通の紅茶に変更していただく。普通のってのはティーバッグでの紅茶のことだったのだが。でもってこのチベタンブレッド、どっかで食べたことがあるようないわゆる菓子パン的な味なのであるが、作りたてのせいか(というか頼んでから作ってるから当たり前なんだけど)妙においしい。コックで従業員のカンチャくんがお薦めしただけありました。コックのすすめには従うべきということかしら。で、彼に近所のチベットレストランでもこの料理は美味しいのかな? なんてことを聞くと、多分前日の晩作って注文あったら温めて出すだろうからうちのほど美味しくないよとのこと。実際には俺自身が食べ比べなければわからないわけだが、でもここのが美味かったからここで食べればいいや。
 その後も雨はやむ気配がないので部屋で読書。昼過ぎにやっぱり退屈なので外へ出てネット。1分4ルピーと高いのでさっさと切り上げようと思ってたが数日やってなかったのでメールがたまっていて1時間以上かかってしまった。その後アニールモモでとんかつ定食。漫画を読むつもりだったのだが店主のドゥルガーさんと話し込んでしまう。オフシーズンで客が少ないが、ここまで少ないのは今年と一昨年くらい。今年の場合は特にストライキや国内テロのせいもかなりあるだろうとのこと。話は変わってここにある日本の本や『旅行人』について。『旅行人』は毎号送られてくるわけだが、普通の漫画や活字の本はどうしてるのかと思ったら、噂をきいて自分で日本に行った際に買ったりしてるのだそうな。が、旅行者の中にはマナーが悪いものも多く、例えば前は『ドカベン』全巻が揃っていたのに今は10冊程度しかない。残りは旅行者に貸したらそれっきりかえってこなかったりして減ってしまったという。『旅行人』も前は地図をコピーしたいという客には貸し出したりもしていたのだが、わずか数ルピーのコピー代をけちって必要なところをやぶってもっていったりする旅行者が多いという。こうしたマナーの低下は1998年からであるとドゥルガーさんははっきりと言い切った。それが何の年であったのかはよくわからんが、とにかく98年からマナーの悪い客が目に見えて増加したということである。そんな話を長々としてもまだ土砂降りだったために小林まこと『柔道部物語』6?8巻。さすがに長居しすぎたので傘さして宿に戻る。でもって読書。もう夕方です。しばらくしたら腹が減り、近所の薄暗い食堂へ行きフライドモモとチョウメン。モモはうまいがチョウメンはいまいち。

2002年5月10日金曜日

女医

 本日は医者の日。昨日自転車で走り回ってるときにみつけた病院へ行こうと思い、その前に腹ごしらえでホテルのレストランでレモンシュガーパンケーキとレモンティ。レモンティはいわゆるティーバッグなので問題ないといえばないが、パンケーキはこげすぎでした。やはり食事は外でするべきか。

 食後に歩いてでっかい病院へ。受付へ進むと薬局で注射用の薬買ってこいと言われる。受付にいた従業員が病院内の薬局窓口まで連れてってくれるが、今切らしてるんだかなんだかで、とにかくここではその薬はないと言われてしまう。困った。困ったって顔してると助け船。別の病院の場所を地図に書いて教えてくれた。なら最初からそうしてほしいとも思うが。地図によればこの病院から東へ進み、川を越える橋を過ぎ、ブッダチョークというところがあるからそこを左折。それからさらに右右右と入っていくとあるよ、とのこと。ちと最後の方がわかりづらそうだが、しかし地図を見る限りはそんなに遠くなさそうなので礼を言って歩き出す。非常に遠かった。まずでっかい商店街の一区画があって、そこまで10分くらい全く川なんぞないのである。おっかしいなあ、間違えたのかなあなんて思いながらも違うという確信も持てないのでまだ進むとでっかい例のバスステーションへ出る。そこをさらにすぎるとようやくやたら深い谷をちょろちょろと流れる川を渡る橋があり、ここまで来れば楽勝だ! 俺間違ってなかった! なんて思うが橋渡ってすぐにあるかのようにかかれていたブッダチョークなんてありません。というか左折できる道自体が全然ない。しかし川と橋はあったので間違いではなかろうと進むとようやく十字路発見。しかしどこにもブッダチョークなる標識はない。もしかしたら現地の文字で書かれていたりして、そうしたら俺には読めないよ、なんて思ってたら現地文字でかかれた簡単な地図を発見。読めないんだけど十字路の真ん中に仏さんの顔が描かれてるのでここがきっとブッダチョークだ。てことで左折。その後右右右ってことだったが病院だから何か印が出てるだろうと思って歩くとまた何もなく現地の人々が穏やかに暮らすのんびりした風景が広がるばかり。おっかしいなあもうそろそろ右に曲がってもいい頃じゃないの? てことで右に曲がれるところの角にあった商店のおじさんに病院どっち? と聞くとまだまだ直進する方向を指す。直進。するとようやく「HOSPITAL」という標識が出てきてまだまだ真っ直ぐ。すると右手にドラッグストアが見えたのでこれは近いと判断。そのすぐ先に右に折れるところがあったので念のためその角にいたおねえさんに病院こっち? と聞くとさっきのドラッグストアの正面を指す。見ると広大な土地の奥の方に建物があり、あれが病院だという。しかし土地の入り口には何やら警備員みたいないかついおっさんが一人座っており、しかも現地文字で何か書いてあるだけなのでてっきり軍の施設かと思いました。で、そのおっさんにここは病院か? と確認してようやく敷地内へ。建物へ向かうが土地内の駐車場にたむろしてるタクシー運転手がタクシー乗るか? なんて話しかけてくる。俺今外から入ってきただろうがボケ! なんて長時間歩いていらだってるから心で思うけど英語で言えないのでノーとだけ言って病院内へ。レセプションで狂犬病注射のカード見せると早口の英語で何か言われる。聞き取れないので聞き返すと同じスピードで同じトーンで言い返される。どうしてスローでとかいうことをしてくれないのでしょう。で、まあとにかく2回目でなんとか聞き取ったことによると、ファーマシーで薬を手に入れてエマージェンシーへ行けとのこと。ああ、薬局でいいんだなと先ほどの土地正面にあったドラッグストアへ向かう。と、先ほどのタクシー運転手がタクシー乗るか? などと言ってくる。こんな早く用事終わるかボケ! とか思うが無視。ドラッグストアへ。しかしここにはないと言われてしまう。またたらいまわしかよ! と思ったらファーマシーへ行けという。ここじゃないの? 建物の中だって。戻る。またタクシー運転手が話しかけてくるんじゃねえのかこの野郎と思ってたら気付かれませんでした。かえって拍子抜け。レセプションの横にファーマシーがあり、薬買ってエマージェンシーへ。そこでまた人に聞いてインジェクションルームへ。すると若くてきびきびした感じのなかなかに美しい女医さんが一人。事情話して薬渡して注射してもらう。その趣味の人にはたまらないでしょう。かなり注射がうまくて痛くなかったのでかえってその趣味の人には物足りないのかもしれないが。で、レセプションで金払うのか? と訪ねるとその必要はないとのこと。これでフィニッシュ。女医さんに金払う必要も無し。手続き一切なし。なんといい加減な国であろうか。突然やってきた外国人旅行者が注射うってくれといってうってそれっきり。まあ保険のためのめんどくさい書類記入とか手続きとかないからこっちは楽だけどね。で、再び長い長い道を歩いて宿へ帰る。

 途中空港の横を通るとここでも中で兵士が銃を構えている。このとき進行方向左側が空港で、俺は道の左側、つまり空港側を歩いていたのだが、兵士は俺に気付くと道路の右側を歩けとジェスチャー。実際にテロとかのこともあって空港側は歩くなってことなんだろうけどね。で、宿で少し休んでアニールモモへ。野菜炒め定食頼んで『柔道部物語』3?5巻。時間かけて読んで食って宿に戻り屋上に出て読書と思ったが暑いので庭で読書。夕方5時頃になりレイクサイド方面へ散歩。トレッキングガイドたちにいろいろ話しかけられる。今はオフシーズンでツーリストがいないから困ってるようである。ついでにテロ問題とかもあるし、なおさら客が少ないのであろう。暗くなってきて腹も減ったのでエベレストステーキハウスで奮発してステーキ。肉はうまいが米はまずい。ソースもいまいち。塩と胡椒だけで食べるのをお薦めします。7時半頃レストランを出て戻るが、店の電気はまだどこもついてるけどやはりレイクサイドとダムサイドの間は暗い。途中真っ暗な中で兵士が検問していてびびる。で、宿に戻りトイレで大きいのしてたら停電。なんとか尻を水で流して(今回の旅行中、基本的にトイレットペーパーは使ってません)階下へ降りて蝋燭借りて、暗い中蝋燭の明かりでシャワーなんとかあびて横になる。

2002年5月9日木曜日

カースト制度とポカラのジキジキ事情

 お金を節約しようと思い、朝は現地の人たちがたまっていたレストランへ。メニューは置いてないというので何があるか聞くとモモとチョウメンとのこと。モモを食べていまひとつ満足した味を得たことのない私としてはここはチョウメンを食べることにする。で、何チョウメンがあるかと聞くと野菜、水牛、卵。卵チョウメンに。目の前で調理開始。作ってる間に隣の店の若者が入ってきて、以前日本に7年間いたということで日本語がかなり話せるので会話。六本木のインド料理屋で働いていて、テレビ朝日が近いからいろんな有名人を見たという。でも名前が挙がったのはアムロナミエだけでした。忘れちゃったのかな。そのうち話はいつしかヒンドゥー教のカースト制度について、彼の一人語りになる。今から20年くらい前、俺が5?6歳の頃はまだカースト制度は根強く残っていたよ。ロウカーストの人をみつけるとみんなでいじめてたよ。でもこの20年間で少しずつだけどカーストは重要視されなくなっていった。多分今の子供たちは俺が5?6歳の頃にやったようなロウカーストいじめなんてしないだろうし、(そばにいた1?2歳の子供をさして)この子くらいの年代の子たちはきっともうそんなものを知ることもないんじゃないかな。全ては教育のおかげだよ。俺も今の方がいい。もちろんイリーガルなものでありながらも今でも残ってるシステムではあるけどね。昔はロウカーストの人がこういうレストランで食事をした場合、食後に自分で自分が使った皿を洗わなくちゃならなかった。今でも50歳くらいのロウカーストの人なんかは自分で洗おうとするよ。でも教育が行き届いて少しずつ変わっていった。カースト制度はまだあるけど、人間はやっぱり平等がいいよ。こう語る彼のカーストが何なのかは聞かなかったが、ロウカーストをいじめてたということからして下の方ではないだろう。でもやっぱりカーストはない方がいいと言い、いじめてた過去は嫌な記憶らしい。

 食後に宿の方へ戻って近くでレンタサイクル。レイクサイド方面へ走り、とにかく町中走り回る。湖沿いにずーっと行ってみると5年前にもこの辺りを歩いたことを思い出す。今回はそれ以上奥まで進み、サランコット方面入り口まで行こうと思うが、途中からあまりにも道が悪くなり挫折。戻る。戻ってアニールモモの隣のネパーリーキッチンで食事と思うが人がおらず結局アニールモモへ。しばらくそこで手塚治虫『ブラックジャック』、小林まこと『柔道部物語』などを読む。『柔道部物語』は昔途中まで読んでいたのだが(もしかしたら以前もここで読んでたのかも)、あまりにも面白いので全11巻をポカラにいるうちに読むことにする。明日から毎日アニールモモに来ることが決定してしまう。

 食後に今度はいわゆるトレッキングルートからサランコット入り口を探す。ガイドブックを持っていけばすぐわかるはずなのだが重たいので持っていかない。するとオールドバザールを通り過ぎてしまい、道行く人に聞くともっと手前とのことなので聞きながら戻ってサランコットへの入り口発見。今度1日かけてこっからサランコットへ歩いてみることにする。でも明日は狂犬病の注射うたなくちゃいけないのでその後。ちなみにここまでの道ででかい病院をみつけたので明日はそこへ行けばいいでしょう。で、その後まだ本日は時間があったのでぶらぶらしながら寄り道しながら自転車こいでるとバスステーションへ出て、どうやら昨日朝着いたところであるとわかったのでタクシーで通った道で宿まで戻って道を頭に入れる。その後6時過ぎまで自転車乗り回してから返却。宿へ。宿のレストランでダルバート。俺やっぱりあんまりダルバートって好きじゃないや。

 で、本日某所某人物になぜかポカラのジキジキ事情を聞くことに(その人の立場もあるので誰かは書きません)。言い訳しとくけど自分から望んで聞いたんじゃないよ。1回1000ルピーくらいらしい。安いね。でも多分外国人ツーリストが行くともっととられるだろうとのこと。ユー、トライ? いいえ。ちなみに1回1000ルピーでどれくらいの時間なのかと問うと、彼は出し入れ何回くらいの摩擦によってフィニッシュを迎えるのかという意味に取り違え(そんな質問普通しません。中高生くらいならするか?)50回くらいと答えたりしていた。結局夜行けば朝までOKと判明。そんな1日。フロントにあった瀬名秀明『八月の博物館』を借りたのでポカラにいるうちにこれを読みましょう。

2002年5月8日水曜日

ポカラ到着

 朝6時頃ポカラに到着。5年前と同じく今回も到着と同時にホテルの客引きがバスに乗り込んでくる。しかし今回外国人ツーリストは俺の他に白人カップル一組だけで、しかも俺も彼らもまともに客引きを相手してあげない。バスの外に出ると客引き連中に囲まれる。どこに泊まる? ダムサイド。俺のホテル、ダムサイドにあるんだけどどうだ、車あるぜ。歩くと遠いぜ。じゃあその車でダムサイドまで行ってから違うゲストハウス選んでもいいか? 黙り込む。と、横にいた別のおっさんが、俺はタクシー、70ルピーとのこと。そっちの方が気楽だからそうしようとすると、ホテルの客引きの男が俺の車も宿とは関係なくタクシーだ、60だと言い出す。タクシー男にディスカウントはないか? と問うが70のまま。ホテル男が俺の車で送るとしつこいが、しかしやはりそれに乗ってしまえばこいつのホテルに連れて行かれるのは目に見えてるのでタクシーを選ぶ。するとホテルの客引きったら俺も同乗していいか? などと助手席のドアを開ける。しつこい。もうほんとに駄目。
 タクシー出発。しかしこのタクシーも本当にホテルの客引きではないという保証は別にないのである。なんてこと考えてたらすぐにダムサイドに到着。どのホテルにする? その質問をするということはもしかしてこのおっさんも実はどっかのホテルの客引きなのかしら? ほら、ここが○○ホテル、あそこが○○ホテルだ、どこにしようか? なんだ、希望のところまで連れてってくれるのか。じゃあちょっと待って、ガイドブック出すから。で、地図と照らし合わせると大体どのあたりか判明したので降りて適当なホテルを探すことに。前に来たときに泊まったニューフレンドリーゲストハウスを基点に歩けばすぐに方向もわかるだろうと思ったら、見覚えのある雑貨屋があって見覚えのあるおばちゃんが店を開けている。覚えてる? なんて聞くと覚えてるよと返事される。そりゃ嘘だろうけどまあいいや。しかしそのニューフレンドリーゲストハウス自体はありません。潰れたのかな? でもだいたいの位置はわかったので、その並びにあった以前来たときにここもよさそうだなあと思った宿へ。が、そう思ってた宿もない。物凄く入れ替わりが激しいのだろうか。わずか数年で相当にガイドブックの地図に書かれてるホテルと異なります。
 で、結局その並びにあるそれなりにでかそうなホテルビューポイントへ。値段は一泊180とのこと。できれば山が見える部屋が良く、さらに10日ほど泊まるからディスカウントして、というと、山が見える部屋はもっと高いんだけど10日ってことで180までとのこと。それで了解。オーナーは日本語が結構喋れるので日本語でやりとり。どうしてこのホテルを知りましたか? とのことなので、歩いてみつけた、前に来たホテルが消えてたしなんてこと言うと、前はどこに泊まったのかと問われるのでニューフレンドリーだと答える。いつ? 5年前。5年前にニューフレンドリー? そのとき僕そこのオーナーだったよ。ゴータマといいます。ああそういえば。奥さんとお子さん元気? 元気です。二人ともまだ寝てます。ニューフレンドリーはクローズしてここに移りました。まあ偶然ねえ奇遇ねえ。てことでここに宿泊決定。
 で、とりあえず洗顔してからジャーマンベーカリーで朝食。その後散歩にでも行こうかと思ったが、やはり深夜バスでの移動で疲れて眠いので戻ってシャワー浴びて一眠り。午後に起きて外へ。少し南に引っ越したアニールモモで生姜焼き定食。それからレイクサイド方面へ歩き、途中でオレンジシェイク。さらに歩くが腹痛に襲われ宿へ戻ってトイレ。すっきり。で、違うルートでレイクサイドへ。だんだん暗くなってくる。味のシルクロードで麻婆茄子定食。置いてある本をだらだらと読み、9時になったので出る。
 帰り道、レイクサイドからダムサイドへはオフシーズンてこともあってか人気が物凄く少なく店もどんどん閉まっていくため非常に暗い。場所によっては真っ暗。バラナシの夜よりも恐いかも。何とか宿に帰り着くと門が閉まっている。しかし微妙な隙間があったのでそこから中へ入ると、今度は建物自体の玄関が閉まっている。幸いオーナーの部屋は電気がついていたのでそっちの窓側にまわって呼んで開けてもらい、中へ。ポカラの夜は異常なまでに暗いということが判明しました。まあネパール第二の街とはいえ田舎だしな。

2002年5月7日火曜日

バラナシ発

 午前2時半頃起床。荷物を整理し、3時過ぎにまだ寝てる門番を起こして外へ。ちなみに宿代の支払い等チェックアウト作業は昨晩のうちにしてある。で、まだ街灯(オレンジ色のいかにも夜道ですといわんばかりのもの)しかついてない暗い道を歩いて広い通りに出てリキシャを拾おうとするが、途中で寝てる野犬どもが目を覚まして吠え立てられ、それに反応した近所の野犬が続々と吠えはじめて行く手を阻む。仕方なく犬から逃げて深夜の路地裏を歩くことに。だからといってそこに犬がいないとは限らずそれどころか危険人物がひそんでる可能性だってあるわけだが幸いそんなことはなく無事通りへ抜けられる。さらに運のいいことにオートリキシャのおっさんが起きていてこちらにすぐに気付く。しかし深夜のせいか50ルピー。選択の余地も交渉の余地も無し。
 深夜のバスステーションに到着。バス待ちでそこらで寝てる人たち多数。すでにバスステーション自体は動いており、深夜だというのにやたら活気にあふれている。で、窓口でスノウリに行きたいと申し出ると中から係員が出てきてバスまで案内してくれる。乗り込むとまだ人数は少なく、この程度なら椅子はともかくまあ楽そうだと思ってたら発車時刻の4時に近づくにつれてどんどこ人が増え、しかし荷物は棚の上に入らない大きさなので座席下に押し込んで席をつめる。でもって4時過ぎにようやく出発。しかしこんな早朝からすごい人数である。途中下車するつもりなのか、通路に立ってる人も多数。料金はスノウリまで135ルピー。しかし150出すと釣りは後で返すとのこと。結局ゴーラクプルについた昼過ぎにしつこく釣り返せと言ってようやく戻ってくる。あの調子だと俺が言わなかったら払わなかったに違いない。で、少し時間戻ってバス発車後、それなりにいい感じの揺れのために眠くなる。朝7時だか8時頃目覚めた頃にはすでに田舎。
 途中ところどころで休憩を挟みつつ、スノウリに着いたのは午後4時半頃で結局12時間かかった。どう考えてもミニマムで6時間なんてことはありえないでしょう。途中、確かゴーラクプルのあたりでやたらと「新品」ぽい敷地と建物をみつけ、新品ぽいもののほとんど見あたらないインドで珍しいなあと思ってたらアムウェイだったということがありました。こんなところまで進出してるとは。でもってインドの人って偏見だけどアムウェイ的商法にものすごく簡単にはまりそうな気がして心配。
 スノウリに着いて国境越え。インド側イミグレで、スタンプ押したらもうこのビザではインドに戻れないよと念押しされるがそんなことはとっくにわかってるし非常におしっこしたかったので早くしろと急かす。ネパール側のイミグレでもおしっこ我慢して入国カード書き、ホテルと旅行代理店の並ぶ地域へ。すると一人のネパール人がこのあとどうするのかと話しかけてくる。ポカラへ行くんだよと答えると、じゃあナイトバスがあるよ、ここで予約できるよと言い、ホテルを指さす。朝からほとんどまともに食事せず(休憩時間はあるけどどれくらい停車なのか説明ないしあっても現地語で理解できないので落ちついて食ってられなかった)休憩もしたかったのでレストランもあるここで一度落ちつくことにして、まずトイレへ。すまして座席へ戻ると彼がポカラ行きのバスチケットを用意して待っている。しかし先日のインド側での二重払いが記憶に新しい僕としてはいまいちその手際の良さが信用できず、この前インド側でこんなことがあったのだが今回のこれはこれだけでいいんだろうなと確認。するとその手口はその店の人間のふりしてる奴がやってるんだが、俺はこのホテルで働いてるんだよほらと社員証のようなものを見せられる。いくらでも偽造できそうなレベルのものではあるが、そのホテル内で周囲に従業員もいるところで見せられたし疑ってもきりがないので一応信じる。チケット代を支払おうと思うがインドルピーしかないのでついでに両替。まったく誤魔化されずきちんと受け取る。ネパールって素敵。
 で、エッグカレー食べてバス代食事代払ってバスに乗り込む。夕方6時半発。一応ツーリストバスとのことだったが、バラナシ→ポカラは一般的に外国人はスノウリで一泊するのがパターンのためか、外国人ツーリストはほとんどおらず大半が現地の人たち(共産ゲリラのために観光客が激減てこともあるだろうけど)。動き始めてすぐに眠くなる。途中食事休憩があったが、先ほどカレー食べたばっかりだし寝て起きてすぐではまともに食べられず、簡単にゆで卵程度。夜中に検問で起こされ、ぼんやりしながら外へ出ようとすると途中で外国人だとわかったようでお前はいいと座席に戻される。先に気付いて欲しい。熟睡してたし。深夜のネパール側でのバスは風がかなり寒く、ときたまそのため目が覚めたりを繰り返しつつバスは進む。

2002年5月6日月曜日

バス

gen1971gen2002-05-05  
 朝起きてフロントへ。明日のツーリストバスチケット予約を頼むが、どういうわけか明日明後日のポカラ行きは買えないとのこと。なぜ? ラジーヴによればバスの座席がフルなのではないかとのこと。ちょっとよそをあたってみるよと言ったところ、どこも結局は同じ会社に連絡してチケット買うから同じだよと言われる。そういうものか。
 とりあえずガートを歩いてダシャーシュワメードへ出て、今日もまたムーンスターレストランで、本日はエッグカレーとバターナン。その後コテージシルクエンポリウムへ行ってアニールにバスチケット状況確認してみようと思うが開いてない。隣の店の少年が今日は休みだと教えてくれる。仕方ないのでぶらぶら歩いてリンクシルクハウスへ行ってナトゥと雑談。するとツーリストバスは走ってないかもしれないけどローカルバス=ガバメントバスならあるのではないかとのこと。一度宿へ戻って一休み。それから念のためツーリストバスの確認をよそでもしたいのでサイクルリキシャでツーリストバンガローへ。しかしやはりここでも明日のポカラ方面行きはまったくないという。国境までもなし。そしてやはり理由不明。しかしなんとなく座席が埋まってるというよりもバス会社自体が休みなのではないかという印象。で、ツーリストバンガローの親父が言うには、ゴーラクプルまで列車で行ってそこからバスでスノウリまで行けるというのだが、なんだか高くつきそうだしインド列車の旅は嫌いではないがかなりめんどくさいものだったと記憶してるので今回はパス。それにまだガバメントバスの可能性があるし。で、そのガバメントバスのチケットが欲しいと伝えるとそれはバスステーションで買えとのことなので道を聞きながら歩く。バラナシカント駅のほぼ正面にありました。バスステーションの窓口でスノウリまでのバスについて聞くと、チケットは乗り込んでから買うシステムだという。毎日4:00/4:30/6:30/7:00/9:00/9:45発、それ以後午後出発もある。スノウリまでミニマムで6時間だとのこと。そりゃ無理だろう。この前スノウリからバラナシまで13?14時間くらいかかったんだし。あのときはトラブルがあったからそれをさっぴいて考えることはできるけど、でも6時間はあり得ない。まあ10?12時間かかると思った方がよろしい。で、てことはゆっくりバラナシを出ると半日かかっちゃって結局スノウリのやたらめったらきったないゲストハウスに宿泊なんてことになってしまう可能性があるが(5年前スノウリの宿に1泊したので汚いと断言します)、早朝のに乗ればその日のうちにポカラに行けるのではないか。ということなので明日は早朝4時のバスにチャレンジすることに決定。
 で、ゴドウリヤーまでサイクルリキシャで戻ったのだが、客が俺一人で大変軽いのか(僕は普段体重52キロくらいですが、旅行中はさらにやせて47?8キロくらいのはずです)とばしまくる。おかげで数台のリキシャをどんどん抜かしていくのだが、あまりにもぎりぎりの幅で走るためまるでベン・ハーのようです。恐い。でもなんとか無事到着。
 で、もう一回アニールの店に行ってみるがやはり閉まってる。そこでまたメインロードへ向かうと日本語話す葉っぱ売りが話しかけてくる。いらないので適当にあしらってると他のインド人男子がむこうにムケがいるよと教えてくれるので振り返るとムケがこっちに走ってくる。明日バラナシを離れることにしたから何かジュースでも飲むかと言うと腹一杯だから何もいらないという。お腹いっぱいと、たとえ建前でも言う人に無理矢理飲食物をおごるのも妙なので仕方なく俺一人でペプシ飲みながらムケとお喋り。ほんとにシルクも何も買ってあげなかったのにもかかわらずほんとにマンガのとおりにいい奴だったのだが、日本人のガールフレンドがいるということでイメージダウンです。こんちくしょう。ちなみになぜか彼の着ていたシャツにはでっかく「侍」というプリントがされていた。
 ムケと別れてガート沿いに宿へ戻る途中で先日俺にバングクッキーを売りつけようとして適当に断ったらまたお前が来ることを俺は信じてるなどと胡散臭いことを言っていた男に遭遇。俺を見るなり「ベリーバッドジャパニ、ベリーバッドジャパニ、死ネ」などと言う。ほっとく。
 ホテルに戻り、ラジーヴとその友人と3人で南インド料理屋へ行きマサラドーサー。先日映画を俺がおごったことと、明日朝俺がバラナシを出ていくということでラジーヴがおごってくれる。で、その食事の際に、先ほど「死ネ」とわざわざ日本語で言われたことが非常に不快であったので、2人にこんなことがあってこんなことを言われたんだよとついつい愚痴をこぼすと、どこの人物かと問われるのでホテルから路地へ入ってどこそこの彫像屋の男だと答えるとラジーヴはともかくその友人は誰だかあっさりわかった様子。近所でも札付きの鼻つまみ者だったらしい。あぶねえなあ。迂闊に相手するもんではないということですね。なんでもかんでも現地の人を邪険にする旅行者(ダッカで同じ部屋になった男とか)を見てそういうのは嫌だなあと思ってたんだけど、しかしそれはそれで危険です。で、まあとにかく俺がそういうことを話したことで彫像屋の男は一つ格を下げたようで少しすっきり。話すもんですね。で、宿に戻ってフロントでラジーヴとお喋り。彼は早朝はいないのでこれでお別れなのである。そんなわけで明日の朝は異常に早いので8時に切り上げる。荷物整理してシャワー。早めに就寝。

2002年5月5日日曜日

ムケ

 31歳の誕生日。前もってフロントマン(名をラジーヴというが、日本名はタクヤだと言い張る。誰か日本人が置いていった木村拓哉の写真があって、そっから日本名を勝手にとったらしい)に話してたこともあり、下に降りたら花の首飾りをくれる。ありがたいけど重たい上にやたらと匂いがきついので礼を言って部屋に戻ってはずしました。すまない。ところでラジーヴ、俺の腕の日焼けに伴う皮剥けを見て病気か? などと真面目に言うのでこすりつけてやったら本気でびびってました。これはマイスキンがリーインカーネーションしてるんだと教えてあげると日本人は蛇みたいだねと言われてしまった。
 
 11時頃宿を出てベンガリー・トラへ。途中現地の男に「日本人? ダイキラーイ」などと言われる。無視。昨日見つけられなかったムーンスターレストランへ。正面にあるニュースターホテルレストランと客の取り合い。名前も似てるので気を付けましょう。ここでチキンカレーとバターナンと水。全部で70ルピーと高めではあるが他の店と比べものにならないくらいきちんとうまいのでよろしい。その後例のクミコハウス公認のシルク店、コテージシルクエンポリウムへ行ってみるが、例の店主アニールが不在で従業員のおっさんが相手。いろいろ商品を見せてもらい、アニールが戻ったところで買う物を決定。スリーピングブッダのプリントされた布。特に必要なものでも欲しい物でもないのだがついつい。

 メインロードに出ると今度はやたらと日本語ペラペラな男が話しかけてくるのでこれはなんだか怪しいなあどうしようかなあと思ってると「私はムケです」と名乗る。ムケといえば堀田あきお&かよ『インドまで行ってきた!』(小学館)のバラナシで登場するキャラクターではないか。しかも自分で映画『DEEP RIVER』(邦題『深い河』)に出た、テレビドラマ『深夜特急』に出て大沢たかおと会った、『ビッグコミック』(『インドまで行ってきた!』掲載誌)に出たという。なんか面白そうなので彼のシルク屋(ガンガラムシルクハウス)へついていってみる。すると堀田さんの単行本を出してきたり『深夜特急』の一場面をプリントした写真を出してきたり(一緒に映ってる子どもがムケとのこと。番組中で「神様買う?」といってずっと主人公の後をついてきた子どもの役)、なんだかとってもお喋り。で、マンガの主人公と同じく俺も商品は買わないよと言ったのだが全然平気。しかも握手でお別れです。マンガにイイ奴として登場させたくなる気もわかります(画像勝手に使ってすいません)。

 ホテルへ戻り、目の前のハリチャンドラガートで火葬場を眺めてると、子どもサイズと思われる身体を包んだものを誰かが持ってきて人々が集まっている。子どもは火葬しないということだったのでどうするのかと見ていたら、その身体に重しをつけて、沖へボートで漕いで出てガンジス河の真ん中辺でぼちゃりと沈めておしまい。実にあっけない。でもたまに重しと結んでるロープがほどけて浮かんでくることもあるんでしょう。

 その後路地を通ってアッスィーガートへ。そこからガート沿いにパンチガンガーガートまでの長い距離を歩こうと思う。途中アッスィーガートにあるやや高め(550ルピー)のホテルを見学したりしてガートを北上。クミコハウスの前で若者たちがクリケットをやっている。眺めながら歩いてるとゲーム参加者の一人に日本語でこんにちわと声をかけられる。返事をするついでに彼を見ると何となく見覚えのある顏。もしかして5年前くらいにこのへんでブルース・リーのシャツ着て走り回ってなかった? と聞くと、そうです僕です。ラジャス(多分そう名乗ったはず)ですという。彼は俺のことを覚えてない様子であったが(単に俺が日本人だから日本語で挨拶してきただけ)、今はボート漕ぎして元気だということを確認。良かった良かった。

 そこからまた北に進んだあたりのカフェで一休み。店の番人が日本語でいろいろ話しかけてくるので相手しつつ、今日は俺の誕生日なんだよなんて言ってたら他の席に座ってたシアトル出身の男性がジュース代をおごってくれた。なので「もしも君のバースデーに再会したらジュースおごるよ、ありがとう」と御礼。なんだかいろいろある日である。

 で、その後ダシャーシュワメードも通り過ぎてマニカルニカーで火葬見る? なんていうしつこい連中もかわしてパンチガンガーガートへ向かうが、こっから先は行ったことなかったのでどれくらい進めばその目的地なのかわからない。そしてこっちは停電なのかガートにライトがついておらず、闇はどんどん深くなる。はっきりいって身の危険を感じます。そこでそこらにいる人にパンチガンガーガートはどこかと問うと、今来た方向にバックせよなどと言われてしまう。来すぎた! 仕方なくもう暗いし恐いので来た道をどんどん戻り、またマニカルニカーで火葬見る? なんていう子供たちをやりすごしてダシャーシュワメードガートへ。ベンガリー・トラに入りアンキタレストランで食事。でもってクミコハウス前のガートからガート沿いにホテルまで戻ろうと思ったらそっからホテル方面までも停電。こりゃ危ないので再びベンガリー・トラから帰ろうかと思い戻ったところリンクシルクハウスの横で今中に君の友人がいるよと声をかけられる。中に入るとナトゥがいたので少し話し込み、何にも買わないと言うのにペプシをおごってもらってしまう。ありがたいけど申し訳ないです。で、その後ガートの停電も直ったのでホテルへ戻る。
インドまで行ってきた!―Asian deep walking (Big comic books―Back‐packer’s guide)

2002年5月4日土曜日

子犬

gen1971gen2002-05-03
 スパイシーバイツレストランでチキンサンドイッチとバタースコッチアイスクリーム。左腕が筋肉痛のような痛さ。昨日の注射の後遺症でなければいいのだが。ドクター割りとうつの下手で痛かったし。
 本日も特に予定なくぶらぶら。クミコハウスの前をとおりかかったら中に久美子さんがいるのが見えたので挨拶。当然こちらのことなど覚えてないわけだが。前泊まったの5年前だし。でも中が改装したことに話が及ぶとちょっと自慢げであった。やっぱり結構金かけたんでしょうね。相変わらず日本人客に大人気であるようだ。
 その後スノウリ→バラナシ間で一緒になった若者とばったり会ったりカトマンズのホテルで一緒だった青年とばったり会ったり。ガート沿いにアッスィーガート方面へ歩き、通りを戻りながらガイドブックに載ってないいくつかのゲストハウスを見て歩く。いくつかはあるがそれほど多くはない。エルビスゲストハウスというプレスリーに敬意を表してるんだか単に勝手に使ってるんだかわからないところがあってここがなかなかきれい。オフシーズンは60ルピーだそうな。が、ちょっと場所悪すぎます。路地に入って周りに特に何もないんだもんね。頑張って下さいね。
 その後、ベンガリー・トラで蠅にたかられて死にかけてる子犬が鳴き叫んでいたのを見てしまう。どうしようもありません。ガイドブックでうまいと書かれていたムーンスターレストランで食事しようと思ったがどこだかわからず。仕方ないので本日もアンキタレストラン。ナトゥはいなかった。

2002年5月3日金曜日

16 DECEMBER

gen1971gen2002-05-02 
 医者の日。フロントで病院の場所を聞くと、実は今宿泊客の一人が調子悪くて医者が来てるから、その先生が降りてくるまで待てとのこと。どうせ注射うつだけなのででっかい病院である必要も特にないためフロントで待つ。するとドクターが降りてきたので事情を話し、彼のバイクの後ろにまたがって薬局へ。狂犬病予防注射セットを買ってこいと言われ、そのとおりに。薬局の兄ちゃんは冷蔵庫から出してほらよっと放り投げてくるんだけど、こんなに簡単に出てくるってことはやっぱりこのあたりでは多い病気なんでしょうね。でもって再びドクターの後ろにまたがると物凄く近くにあった彼の医院へ到着。その場で注射うってもらうことに。しかしドクターったら薬の梱包といて注射の準備してる間、どうやら手を洗っておらず、途中で気付いて手を洗う。スリリング。旅行保険証を見せるがどうもよくわからず、とりあえず金払って手紙を書いてくれる。実際に帰国後レシートを提出して返金てことなのかもしれないけど実はきちんとシステムを理解してないのでわかりません。で、カルテ記入の際にドクターは冗談でお前は男か女かなどと聞いてくるのでこちらもわざと一瞬迷ってちんこ確認するそぶりをするというくだらないことで返すとばかうけ。かえって自分が情けなくなります。

 その後アショカレストランでターリー。が、朝からターリーはちときつく、その上蠅がものすごいため食欲減退。残す。店員は辛かった? とか聞いてくるがそうではなく申し訳なくそそくさと店を出る。一度宿へ戻りガート沿いに散歩。

 午後、ホテルのフロントマンと約束してたので戻って彼とその友人と一緒に3人で映画。作品はマニ・シャンカール監督の『16 DECEMBER』。聞いたことある名前の監督だから有名なのかな? と思ってたんだけど帰国して今これ書きながら調べたらラヴィ・シャンカール(インド映画音楽の人)と勘違いしてました。日本では公開作なし。でもってこの映画、『スパイ大作戦』インド版といった趣で、全体的にインド映画としてはシャープな感じでテンポよくてかなりハリウッド映画を意識してる、ある意味新たなるタイプのインド映画なんだけど(俺の観てきた範囲で)、こっちとしてはそういう他の国でありがちな映画ではなくいわゆる歌って踊るインド映画を観たくて来てるのでちょっとなあ。歌も踊りもなくはないんだけど、歌の大半はスパイチームのこれまでの活躍をカットバックでみせるところでのBGM的な使われ方をしてるのでかなりそういうインド映画的なのとは違うのね。そんなわけでフロントマンはかなりいい映画だと言ってどうやら本日すでに数回目の鑑賞だったらしいんだけど、すまんが俺はいまいちだった。事実それほどうまいわけではないスパイサスペンスといった感じ。

 宿に戻ってガート前にある火葬場をしばらく眺める。その後歩いてダシャーシュワメードガートへ。本日は大規模なプージャが行われており、河では精霊流し、ガートでは大勢の人々が音楽を奏でながらお祈り。音がでっかいのでほとんどお祭りであるが。しばらく見学の後、夕飯食って戻る。以上。

2002年5月2日木曜日

ドゥルガー寺院コンサート

gen1971gen2002-05-01 
 朝5時に起きてガンガー見物ボート。他に乗客がいなかったので貸し切り。いいですね。他のボートはけっこういっぱいだけど。ハリチャンドラからマニカルニカーまで行って帰る。50ルピー(1時間25の契約でした)。途中他のボートが寄ってきて、葉の船に花を乗せて火をつけたものを、自分や家族、友人のカルマを流すとして流させられて200ルピー。ほんとインドってこっちの意志を無視して先に行動させてからお金請求するって多いよね。わかってるけどけっこうひっかかります。
 で、まだ朝早いので部屋に戻って横になるがしっかりとは眠れず。9時頃にまた停電でファンが止まり暑くて起きる。宿のレストランで食事。その後ガート沿いを散歩。本日もダシャーシュワメードガートまで。そっからメインの通りを歩いてゴドウリヤーのラッシー屋でプレーンラッシー8ルピー。ちなみにガンジャラッシーは10とのこと。それからギルジャガル交差点へ向かい、日本人宿として有名なプシュカルゲストハウスを外から確認。たまたま出てきたオーナーに知り合いでもないのに挨拶だけして去る。
 その後宿にまた戻って一休みの後、ガートをぶらぶらしてたらバングやハシシ売ってるという男に声をかけられ、暇だったのでそいつの店に行ってみる。ガンジャビスケットやらバングクッキーやらを見せられて売りつけられそうになるのだが、どうにもそのクッキーなんかがばさばさで食欲をそそらない外見をしており、ついでにそいつの店というのも彫像屋であってバングとかは明らかにブラックで扱っているという雰囲気(そもそもブラックなものなんだろうけどもっと堂々として欲しい。堂々と売ってる地域なんだから)。なので今はとにかく金が無いと言って逃げようとしたところ、かなり本気でまた来いよなどと言われる。来るかどうかわからないし来なくても気にするなとこちらも都合のいいことを言ってみるのだが、そういうときに限ってこいつは俺はお前を信じてる。アイビリーブユーなどと妙に友情らしき胡散臭いことを言い出す。なので適当に返事してようやく店を出る。その後もまた散歩したりして部屋に戻ってぐったり。とにかく暑い上に用事があるわけでもないのにやたらと歩き回ってるからね。
 夕方、ガートを歩いてクミコハウスの前あたりに来ると、昨日会ったアンキタレストランの人物に会う。クミコハウスと階段を挟んで隣りにリンクシルクハウスというのがあるのだが、そこは彼が経営に参加してるところだという。中に入れというので買わないよと前置きしてでもいいというので入る。値段を聞くと、メモしてないのでいくらだったか忘れたけどとにかくかなり安そう。彼(ナトゥという、なんだか日本人のつまらないコメディアンがインド映画を真似たときのような名前でちょっと同情)はその値段がいかにバラナシの一般的な値段に比べて安いのか、ということを力説、日本人にも多く知らせたいとのことであったのでみなさんインドに行ったら覗いてみましょう。
 宿に戻ると、本日から5日間、ドゥルガー寺院でオールナイトのコンサートが開催されるという。宿泊客が数名と、インド人の音楽の先生という人物が行くけどどうかと言われるので一緒に行くことに。9時頃宿の前に集合し、5人ほどでサイクルリキシャで向かう。すでにコンサートは始まっており、インドの伝統的なタイプの音楽が演奏されておりました。で、特に座席が用意されてるわけではないので空いてるところにどんどんつめて座る。しかし夜だというのにどんどん客は増え、後ろを見ると物凄い人数。しかしそうこうするうちに夜中の12時半くらいになり、ちょっと疲れたので一緒に来た方々に手を振って先に寺院を出る。もちろん宿へ歩いて帰るのは危険なのでサイクルリキシャを使おうと探すと、一カ所にたむろしていたリキシャーワーカーが我も我もと声をかけてきてめんどくさい。とにかく一人に値段を聞いて他もかわらなさそうだったのでそれに乗って宿へ。深夜のインドの町中を見れたのが収穫。暗い。当たり前だけど。で、宿について、ようやく左手の包帯とってシャワー。寝る。

2002年5月1日水曜日

ベンガリー・トラ

gen1971gen2002-04-30 
 朝9時頃、ファンが停止したため暑くて起床。停電。で、外へ。ベンガリー・トラのどっかで食事しようと路地に入ると早速インド人が話しかけてくる。今回の旅行では基本的に話しかけられたら反応はするようにしようと思っていたので会話。で、ベンガリー・トラはこのあたりからだとどう入ればいいのかと問うと、ガイドブック上ではBhadaini Rd.とされている、いわゆる大通りへ出てここがベンガリー・トラだという。後で他の人に聞いても同じように答えるのでもしかしたら本当にベンガリー・トラってのはガートに平行した裏の路地のことではなくこの大通りのことなのかもとか思う。でも日本のあらゆるガイドブックでは路地がベンガリー・トラだしなあ。俺の会話能力に問題があるのかもしれませんが。
 
 で、その大通りに出たところ、ちょっと道を聞いた現地の若者が延々と話しかけてくるので、申し訳ないが彼をまくために目の前にあった適当なレストランに入ると彼は「ここはいいレストランだ。じゃあね」と言って去る。いい人だったんだね。すまん。で、エッグパコラと水。そして狂犬病予防の薬。その後ホテル前のハリチャンドラガートから、ガート沿いを途中にある店でチャイ(2ルピー)を飲んだりペプシ(10ルピー)飲んだりしつつメインのダシャーシュワメードガートまで歩く。そっから今度はビシュナワート小路へ。

 以前クミコハウスに泊まったときにチケット買うならここでと言われてちょくちょく来てたシルク屋はどこだったかしらんとちょっと探してみるがわからず。こっちの道は全く頭に入ってないので、また大通りへ出てゴドウリヤー方面へ。初めてインドに来た時(1994年8月)に誤ってバングラッシーを飲んでしまった店に行ってみるがやってなさそうな感じなので再びダシャーシュワメードロードへ。ガート方面へ行く途中にいた屋台のアイスクリーム屋からオレンジアイス(5ルピー)を買いその場で食す。物凄く人工的な味。そして(ガイドブック上の)ベンガリー・トラへ。プリンス楽太郎(プリンス似ということになってるが実際には今田耕司似)と名乗る従業員(もちろん現地の人)がいた店(スパイシーバイツレストラン)等確認しつつ進み、クミコハウスへの曲がり角まできて、その前の店でリムカ(10ルピーくらい)を飲む。

 クミコハウス前を通ると中から宿主のシャンティさんに入れと手招きされるので、5年前にここに泊まったけど今はよそに泊まってますがいいの? てなこと言うといいから入りなさいとのこと。お言葉に甘えて内部へ。1階はどうやら作り直したらしく前より細かく部屋が別れていてきれい。そして5年前にちょっと具合悪そうだったシャンティさんは実に元気そうである。どうして以前ここに泊まったのに今回はよそに泊まるのかなどという大変難しい質問をされるが機転を利かせて曖昧に答える。

 で、またベンガリー・トラへ。そこをずーっと通って宿へ戻る。一休みしてまた外に出て、食堂でベジ・ターリー(12ルピー)。他に水と7UPも頼んだので計32。飲み物は高い。ターリーが安すぎるのか。で、また宿で一休みして、今度はアッスィーガート方面へ歩く。さっきのハリチャンドラ→ダシャーシュワメードも昼前のせいか人が少なかったが、今度はさらに少なく、たまにすれ違うインド人が悪人だったらどうしようなどと考えるが無事にアッスィーガートへ出る。そっから大通りへは出ずに路地を通って宿方面へ戻ろうとするが、ここらへんはあまりに道が入り組んでる上にところどころに犬がいてしかも結構活動的。先日かまれたばかりの私としては大変恐ろしい。結局かなりうろうろして大通りへ出てそっから宿方面へ戻る。

 またガートに出て今度はダシャーシュワメードも越えてマニカルニカーガートの方へ。ここの火葬場で見物しろとやたらしつこく言われるが、以前ここで見物料を請求された思い出があるので(払ってないけど)適当に断り路地に入る。で、とにかく屋上からの風景が素晴らしいという噂のプージャゲストハウスへ。停電中の上にどうやら日の光があまり入らないらしく中は大変薄暗いのだが、快く屋上を見物させてくれて上がると物凄いいい景色。しかも今はシーズンオフのせいかほとんど客がいない。ここでも良かったかもね。しかも屋上というか建物が周囲のどの建物よりも高いので、とにかく遠くまで何も遮るものがない。下見ると恐いけど。

 ダシャーシュワメード方面へ歩いていこうとすると、この辺り道がよくわからず迷い、気付くと先ほどやっぱりわからなかったビシュナワート小路に出る。例のシルク屋ってやっぱりこの辺りだったと思うんだけどどこだったかなあとぶらぶらしてるとそれらしいところを発見。しかしあの広さの店がなく、似てるけど違うところなのかしら、おっかしいなあと思って出ていこうとしたところオーナー発見。互いに顔を覚えていて店内へ。店自体は前の半分のサイズになっていて、不況なのかしらと思いつつもそのことを聞くと、1階のこの部分はせまくなったけどかわりにこの上ほぼワンフロアを買い取って自分の商品がたっぷりあるという。もうかってるんじゃないか。チャイをおごってもらう。ネパール王室殺人事件や去年の米テロ、アフガン報復等のあおりで客足が遠のいた、しかも今はシーズンオフで暇だという話。でもそろそろ日本はゴールデンウィークだから日本人もきっと増えると思うよと言っておく。無責任な発言だけど。しばらく談笑の後店を出る。外はもう暗い。道は明るいが。

 またベンガリー・トラへ。スパイシーバイツレストランで唐揚げ定食。しかしプリンス楽太郎はもうこの店を辞めたとのこと。そういや今日の昼飯のときにお薦めの店を教えてくれたおじさんがいたのだが、彼は自分が楽太郎の親父だと言っていた。ほんとだとしたら世間はとても狭い。

 食ってベンガリー・トラを歩いているとクミコハウスへの曲がり角にあるアンキタレストランの従業員に声をかけられる。が、今はもうお腹いっぱいだからまたね、でもここは5年前に来て食べたよというと、互いにさっぱり覚えてないのにやたら喜ばれ、実はうちは最近ゲストハウスもオープンしたからみていってくれと中を案内される。今俺が泊まってるHOTEL SONMONYと同じようなレベル(ダブルでシャワー・トイレ付)で80ルピー。オンシーズンでは100。でもこのくらいのレベルなら120くらいでもいいのではないかと思ってそう伝えるが、彼は旅行者は少しでも安い方に流れるから120でも高いという。そんなもんか。インド旅行してる外国人(日本人含む、というか特に日本人)はケチだもんな。で、日本人のオンシーズンを教えてあげる僕はとっても親切です。ただ、これだけゲストハウス過多だとやはり新しくオープンしてもきついのではないか。

 どんどん暗くなってベンガリー・トラの店も閉まっていくので宿へ戻る。するとホテルのフロントの男(なんとまあカルカッタのサトシそっくり)が俺のカメラ(EOS5)を見てこの宿の屋上からの風景をフロントに飾りたいから写真撮ってネガをくれと言う。了解。で、なぜか雑談。ミスター・クラマエ(蔵前仁一編集長)を知ってるかと問われたので、2年前まで俺は彼の会社で働いていたんだと答えるとそのミスター・クラマエの名刺を出してくる。去年の『旅行人』でのバラナシ特集、蔵前さんはこのホテルに泊まってたんですね。まあ俺もそれ読んでここら辺のホテルは穴場だってことで来てるんだけど。で、じゃあ知り合いということで俺に対してサービスが良くなるのかなあとか思ったら、フロントの男はミスター・クラマエはここに一ヶ月も滞在して毎晩俺と長時間いろんな会話をして、このホテルをガイドブックに載せてくれるといってたんだけどでも載ってない。どうしてだ! と何やらエキサイトしてきたのでこれから出すガイドブックに反映させるんであってまだその時は来てないんだよと言って退散。実際ほとんどのガイドブックはバラナシに関してこの辺りまでフォローしてないことが多く、仮に地図が載っていてもここら辺の宿に関してはさっぱり書かれてなくて(ロンリー・プラネットでさえもそのようである)結果として客の大半はダシャーシュワメード周辺に流れてしまうので彼の怒りももっともではある。で、部屋に戻ってシャワー。しかし犬に噛まれた左手の包帯はまだとれないのでシャワー浴びづらいことこの上なし。寝る。